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CASA-AF

紀尾井町の春-花便り

 この頃急に春めいて来て、風も少々艶めかしい匂いになったので、誘われるかのように外に出て、近所のオーバカナルへランチに行ってみました。
 紀尾井の森を通り抜けていくのですが、森には、まださすがに新緑の気配はありませんが、スミレのようなお花畑があり、びっくりしました。また別の一群には里山でよく見るカタクリの花のような花も咲いていました。
 都会のど真ん中で、、、自然の力はやはり、偉大です。

紀尾井の森のお花畑

紀尾井の森のお花畑

すみれ?

すみれ?

カタクリの花?

カタクリの花?

 オーバカナルの前には清水谷公園がありますので、ちょっと覗いてみると、春を告げる花々があちらこちらに咲いていて、日曜日ということもあって、春の日差しを楽しむ人々が三々五々散策をしていました。

こぶし

こぶし

こぶしの花

こぶしの花

ヤマブキ

ヤマブキ

ヤマブキの花

ヤマブキの花

ユキヤナギ

ユキヤナギ

ユキヤナギの花

ユキヤナギの花

タンポポ

タンポポ

オーバカナルもテラス席は満席で、昼間からワインを飲む人も多く、道端にはマセラティやカマロのオープンカーも停まっていたりして、なかなかいい雰囲気を出していました。今頃は、きっと絵画館前の銀杏並木にあるセランも同じように自慢の車が横付けにされているんだろうなと、ちょっと懐かしく思い出されました。

オーバカナルのテラス席から

オーバカナルのテラス席から

 都市会館ホールの脇道が梅見坂公園で、こちらにも足を伸ばすと、名前のように、最期の梅や枝垂れ桜が一部咲きで見られました。

鹿児島梅

鹿児島梅

枝垂れ桜

枝垂れ桜

クチナシ?

クチナシ?

 東京には自然が無いと思いがちですが、ちょっとした緑でもよく観察すれば、いろんな季節が見えるものです。冬に葉が落ちれば、もう新芽は出ていますし、ましてや春になれば、新芽のエネルギーに満ち溢れてきます。
 新緑の森に入ると息が詰まるような、エネルギーに圧倒されますが、そんな体験も都内でも十分に味わうことはできます。
 この辺りですと、神宮外苑は無論のこと、明治神宮の参道も根津美術館も恰好の場所です。

 もちろん大自然の森とは違いますが、全く手つかずではないという魅力もあるものです。野性味に変えて、ちょっと洗練された手の入った自然も魅力的です。
 素材勝負の田舎の美人より、多少美貌は劣っても、垢抜けた感じの都会の女性が素敵に感じるのと同じかもしれませんね。
 そういう意味では、目黒の自然教育園は、武蔵野の百姓女が頬かむりを取っただけのような自然がしっかり残されている唯一の森かもしれませんね。(例えが適当ではなく、陳謝します。)

 そうこうしているうちに、春本番になり、すぐに五月の連休が来て、また蓼科の小屋開きに行くことになりますが、数年に渡りブログを書いていると、「そのことは、ついこの前に書いたのに、もう一年たったのか」と本当に驚きます。

 いつも思うのですが、神様は、何故人間には植物のように、新緑から紅葉へ、そしてまた新緑へという短い循環を寿命の中に入れてくれなかったのでしょうか。
毎年とは言いませんが、人生に何度かの春と夏をくれれば、なんと人生は楽しいことだろうかと思います。
 時空というモノが、一方向で不可逆的であるのは、神が人間に与えたお仕置きなのでしょうか。それとも人間には哲学が必要不可欠とお考えになった結果なのでしょうか。

イエスジョージの椿の花

イエスジョージの椿の花

イエスジョージの椿の花

イエスジョージの椿の花

 

両国放浪記―シアターχと回向院

土曜日の6時ころテレビをカチャカチャして見ていたらBS朝日「ザ・インタビュー」で小林聡美という女優が、エッセイストとして、幻冬舎の編集者から(名前は失念しました。)インタビューを受けていた。
彼女は、確か劇作家の三谷幸喜の細君か(であった?)と記憶があったが、なるほどと合点がいった。
聡明な人である。打てば響くという感じは、凡人である小生には少々気おくれするところもあるが、三谷幸喜は、失礼ながら彼女の美貌を補って余りある才気を気に入ったのだろうと思った。
やはり女性は賢女に限ると納得したのである。

テレビをここで切れば平穏であった。

 続いてブラットピットとアンジェリーナ・ジョリーのMr and Mrs Smithを見てしまったら、アンジェの美貌とナイスバディに悩殺されたのである。やはり女性は美形が良いなあ、と又煩悩をさまよったのである。

 さて話は戻りますが、小林聡美の上手な文章をテレビで見てしまった後に、ブログを書くのは正直なところ気が滅入るのだが、週一と決めてしまったからには書くしかないので、今日はある日の一日の出来事を書いてお茶を濁すことに決めたのである。

金色の翼

金色の翼

 僕のもっとも新しいガールフレンドの一人が、両国のシアターχで「金色の翼に乗りて」という舞台に、いしだ壱成とダブル主演するというので、家人と一緒に見に行った。

 ガールフレンドなんて、まさか!とお思いでしょうが、年寄という見栄っ張りな存在は、一度でも口をきけば、皆ガールフレンドと自慢するものなのである。
 二度でも会おうものなら、ほとんど‘俺の女’呼ばわりするものであるが、誰も信じやしないから実害はなく、身内も世間もそれを許す習いがあるのですよ。

 ちなみに、このような言動というか妄想が高じると医学的には老人性精神病というらしい。

 両国に行く前に六本木の‘おつな鮨’に寄り差し入れを買った。稲荷寿司70個と干瓢巻40切れが、あれほど重いとはびっくりした。それに箱のカサが大きくて持ちにくい。両国駅から劇場までは徒歩3分くらいだが、思わずタクシーに乗ろうかと迷ったほどである。考えてみれば、ほとんどが密度の高い米なのだから重いはずである。

金色の翼②

金色の翼②

 お芝居の方は、劇団ピープルシアターが35周年を迎えた記念脾的な公演とかで、出演者は皆熱演であった。
 伝えたいメッセージ性が高いことだけは理解できたが、凡庸な小生には把握しきれなかった。「人は皆、金色の翼を求めて悩み苦しみ、さまよいながら生きて行く」ということなのでしょうか。(演出家の森井睦さん、理解力が不足ですみません。)
 煩悩解けやらぬ小生は、金色の翼に乗って、あわよくばもう少し彼女のお近付きなりに行きたいと妄想するばかりでした。

 芝居がはねると役者さんが出入り口で見送りをしてくれ、僕は彼女からバレンタインチョコを貰い舞い上がったのである。
 彼女がダントツのオーラを放っていたのも、ちょっと誇らしげであり嬉しくもあった。

 シアターχが入っている両国シティコアビルの隣にある回向院という、近代的な建築のお寺が、いやでも目に入っていたのだが、帰りには誘われるかのように門をくぐった。
 ドーム状の現代風な山門をくぐると石畳の長い参道の両脇は竹林で、都会とも思えない静寂な空気である。
 おそるおそるドアを開け、中に入ってみると、学校の講堂のように椅子が整然と並んでおり、その正面には、大きな阿弥陀如来の黒い仏像が鎮座していて、まるで教会のような感じであった。壁面にはいくつもの仏像がかけられ、巧みなライティングと高い天井もあってか荘厳な雰囲気を醸し出しており、椅子にはミサでも待つかのように、数名の老人が座っていた。
 私達も思わず腰をおろし、しばし休むことにした。何とも落ち着くのであった。

 三々五々と人びとが集まりだし、椅子も埋まってきたので、何かあるのかと思う間もなく、読経が始まった。お経と木魚と鐘の音が実にリズミカルで、自分の身も心も共振し、丸で佛の中に一体化していくかのような気持ちになった。
 しばらくすると、前列の人からお焼香が始まり、順番が来たので、理由もなく私達もお焼香をした。
 驚いたことは、若い革ジャンの青年が実に見事な所作でお焼香をしたことである。

 回向院は、偉人から罪人まで、行き倒れから犬猫に至るまであらゆる生物を、墓を作ってねんごろに弔う心の広いお寺だから、最近誰かのペットでも死んで、その供養だったのかもしれないが、ここで頭を垂れ合掌するのは決して嫌な気分ではなかった
 八百屋お七や鼠小僧の霊が招いたのかもしれない。

 聞くと、読経は毎日午後4時に定例であるそうで、これはちょっとした感動であった。
 我が家の近くには、お寺が長屋のように5,6軒並んだ一画があるのだが、何処として、かような宗教本来の活動、仏事をしているところは無い。もしあれば、是非通いたいと思ったのである。

 観劇とお経で、すっかり心も浄められ、いい気分で駅に向かう道中に風情のいい甘味屋があったので、寄ってみた。

 小生は、その後銀座で酒場放浪記の取材の約束があったので、少々腹ごしらえをする必要があったのである。

 団子と餡子コーヒーとカレーライスとハヤシライスの一緒盛り(ダブル盛りという。)を食べた。いずれも一皿づつを分けっこしたが、どれも美味しかった。
 お店の名は両国堂といった。
 甘味屋は下町に限る、と分かったようなことを思いながら、帰りがけに、銀座の淑女への手土産に杏飴を3本買った。

 こうしてせっかく清められた我が心も世相にまぎれて行くのであった。

 テレビ番組の酒場放浪記では、終わりに一句出るので小生も真似をして一句整え、今回のCASA=AFを終えることとします。

 両国の女神と菩薩で浄められし
 我が心も
 銀座の宵で元の木阿弥

 お粗末さま

 

伊良湖岬から豊川稲荷をめぐる郷愁の旅

 昨年の暮れに息子夫婦が帰国した折に、3人で愛知県岡崎市の老人ホームにいる母親を訪ねて以来久方ぶりに、2月の祭日に見舞いに行った。東名高速で約4時間の道のりである。雨男には珍しく、梅でも咲こうかというような小春日和で快適なドライブになった。

東名富士川サービスエリアから

東名富士川サービスエリアから

 私も家人も木曜は休診日で私達には連休になったので、最近とみに噂の高い渥美半島伊良湖岬に近い田原市にある角上楼という宿で一泊することにした。岡崎~田原は約2時間の距離である。
 田原といえば幕末の烈士、渡辺崋山と、元優等生は反射的に思い出すが、あらためて調べてみると、歴史の教科書では幕末の蛮社の獄で捕まり切腹したことになっているが、実は、極貧のなか、生活に困窮して得意な絵を売ってしのいだことが幕府に問題にされ、それを潔しとせず切腹した様である。いずれにしても大変な秀才で努力家であったのは事実で、藩の中枢に昇りつめると、質素倹約の善政をしき、天保の大飢饉で一人の餓死者も出さなかったのは田原藩だけとなり幕府は田原藩を褒賞したというほどである。

渡辺崋山

渡辺崋山

ちなみに渡辺崋山は東京の麹町の生まれだそうである。前にも話したが、家康は防衛戦略上、紀尾井町、麹町近辺に三河の親藩大名の屋敷をおかせたので田原藩の屋敷もこの辺りにあり、崋山はそこで生まれたのである。紀尾井町の半住民である小生にはちょっと嬉しい話ではある。

近年の田原市は何の変哲もない貧しい田舎町であったが、最近はトヨタ自動車が進出して、有名な電照菊と共に財政を豊かにしているようである。
そのせいかどうかは知らないが、この田舎町に角上楼という全国区の有名旅館がある。
元は遊郭であったという粋な建物が旅館になっている。
テレビで紹介された話では、年間10組に満たない客数になってしまった20年ほど前に、困り果てた現在の主人が一念発起して河豚(フグ)料理で集客しようと戦略を立て、それが大当たりして現在の隆盛を築いたそうである。

角上楼

角上楼

全景

全景

ロビーの一画

ロビーの一画

二階の廊下

二階の廊下

中庭

中庭

 実は三河湾から遠州灘はフグの漁獲高は日本一で、当時は地元では食べずに全部下関港に行き、下関産として全国に流通していたそうである。その河豚に目を付けたのである。  
 思い出すに、そういえば子供の頃に、フグを食べたことはおろか、話すら聞いたことはなかった。三河湾でとれる良質な魚介は他にもいくつもあるが(例えば有名な蒲郡あさりをはじめ、こはだやサイ巻海老、シャコ,ミル貝、トリカイなどの鮨だねが特に多い)、ほとんどは築地直行になり、地元では口に入らないし、またそれを食べる文化も育っていないのである。

 さて角上楼であるが、地元の友人達の話では評判は今一つであったので、期待半分で訪問したのであるが、到着してみると、期待値が低かったこともあってか、予想以上の建物、設えで接遇も三河らしからぬあか抜けたものであった。私達の部屋は元遊郭らしさが忍ばれるベンガラ色の壁に網代風の天井の部屋にベッドが置かれ、バスルームは陶器のバスタブが部屋の中央におかれて、透明なガラスで出来た洗面ボウルというモダンな造りであった。

客間

客間

内風呂

内風呂

 料理はとらふぐコースを頼んだが、正直これは期待が高すぎたようであった。目についたものは、フグの八丁味噌煮と万古焼の土鍋位か。別注文の白子焼きに至っては、天ぷらにしたの?と思わず聞いてしまうほどであった。要するに、自慢するほどフグ料理に精通していないのである。一番の楽しみの最後の雑炊の出来も自分で作りたかったと思ったほどである。

白子の茶椀蒸しとフグの味噌煮

白子の茶椀蒸しとフグの味噌煮

万古焼の土鍋

万古焼の土鍋

 翌日は、いつもより早出にして伊良湖岬に行ってみた。ここは子供の頃には、遠い憧れの行楽地であり、小学校のバス旅行だの家族でのたまのお出かけの思い出の地でもある。
 愛知県で太平洋の大海原に面するのはこの渥美半島の外海だけなので、大きな波はここでしか見ることが出来ない。三河湾も伊勢湾も波は穏やかなのである。従って、台風ともなれば、押し寄せる高波を見に来る人も大勢いるのであるが、ちなみにわがオヤジ殿も野次馬の一人で、子供を乗せて車を飛ばして見物に来たものであった。当時の道路事情と車の性能であるから、ゆうに3時間近くかけて、はるばる来たのである。

伊良湖岬灯台

伊良湖岬灯台

恋路が浜

恋路が浜

 普段は白波と美しい浜辺が続く温暖な風光明媚な観光地であり、恋路ガ浜というロマンチックな名前と共に、島崎藤村の「椰子の実」の歌で有名である。ちなみに椰子の実は実際に流れ着くそうである。
 そういえば、道中では菜の花がすでに満開であった。

 伊良湖岬からは、豊橋に戻り、豊川稲荷に参詣して、昼ごはんは静岡県島田市にある日本一と信じる蕎麦屋、藪宮本で食べて東京へ戻るという欲ばりコースを予定した。

 どうでも良いことですが、渥美地方及び東三河の人びとは何故、あれほどまでに遵法精神が高いのでしょうか?40キロ制限の道路は、どんなに空いていても40キロ以上は出さないのですよ。
 そのおかげか、14:30ラストオーダーの蕎麦屋に間に合わなくなってしまいましたよ。

 さて豊川稲荷ですが、この寺は子供の頃には家族で月参りをしていたので、数えきれないほど来ていたのですが、今回来てみると、数十年ぶりとはいえ、まるで奈良の古寺を初めて訪ねたような気分でした。年を取るとは、かような体験の連続なのですよね。

豊川稲荷

豊川稲荷

本殿

本殿

 豊川稲荷の名物土産といえば、お稲荷さん、(別名稲荷寿司)だとお思いでしょうが、実は3大土産があります。‘虎の巻’いう芯に甘い飴棒が入った巻物状になったせんべい、’‘生姜糖’というのし状をした砂糖菓子、薄いウイロウを重ねたような‘生せんべい’である。どれも懐かしい味であり、今食べてもうまいと思うから不思議である。
 虎の巻だけは東京赤坂の豊川稲荷でも売っていますが、他は無いのが残念でならない。

 さて、さて今回の目的であった母親のことであるが、認知機能は行く度に衰え、益々老人化していく姿は、息子としては不憫でならないのであるが、当の母親には分からないのであるから、本当に不憫なのはどちらなのかは分からない。
 しかし、すっかり笑わなくなった寂しげな顔は、全ての事情を理解しているように思えてならない。老人ホームは体のいい姥捨て山であることを理解し、それを自分に納得させようと努力しているように見えてならないのである。
 朝焼いて持参したローストビーフと土産の子供用の童話のジグソーパズルを見た時、母親の眼が一瞬輝いたのを、はっきり見たからである。

 帰りに、こうして見舞いに来られるのはいつまでなのだろうかと、ふと思った。
 僕は生涯、財力を蓄えることに興味は無かったが、今となっては母親を手元に置いて面倒が見られるくらいの財力を持てなかったことを悔やんでいる。

 「親孝行したい時には、親はなし(、子は弱し?)」というではないですか、若い皆さんは「後悔先に立たず」ですよ。

 母親を見舞うためにも、僕ももう少しは頑張らねばと思わせてくれるのも、きっと母親の愛情なのでしょうね。
 それにはあと10年は運転免許証の返上はさせないで欲しい。
 、、、代わりに医師免許でよければ返上しますから。

 

ウエストサイズストーリー-平均年齢62歳、平均ウエストサイズ90センチのオヤジ達のミュージカル

プログラム表紙

プログラム表紙

チラシ

チラシ

 六本木界隈をうろついている、平均年齢が60歳(最高84才)を超えた男達が集まって、自然発生的に出来た合唱グループがあるらしい。六本木男性合唱団倶楽部(六男)というらしいが、そのグル―プがなんと、Bunkamuraオーチャードホールでミュージカルを公演したので見に行った。
 友人でもあり、帝国プラザのクリニークデュボワに美容整心精神科を開設させていただいたりしてお世話になっている中原悦男先生が六男の副団長をされている縁で(決して義理ではありません)、1月15日の昼公演に行った。

 木曜の昼間というのに会場は大変な賑わいであった。オヤジ達の会らしく綺麗どころも集まり、ちょっといつもと違う華やいだ雰囲気もあった。

ホワイエでの賑わい

ホワイエでの賑わい

綺麗どころも

綺麗どころも

 ミュージカルはウエストサイドストーリーをもじったものであり、原作の筋書きに沿っているので、ダンスがふんだんに入っているのが、(ミュージカルであるからには当然ではあるが、それが)痛ましくもコミカルに仕上がっていた。
 ま、介護なしでは歩くのもままならぬような老人にステップを踏ませようというのだから、演出も大変だろうが、それにしてももう少し歌を主体にすれば、馬脚を現さずに済んだろうに、という場面が多々あった。聞くところによれば、出演者は女性役希望が多く調整が大変だったとか、セリフも平等に振らねばならないだろうし、演出家も苦労の多い話であったであろうと推察できる。

 出演者は、基本的にお金と時間に余裕のある、世にいう成功者ばかりである。音楽監督はかの三枝成彰氏であるし、出演者の主だった顔ぶれには鳩山由紀夫元首相をはじめ、日赤社長の近衛忠輝氏だの五井平和財団理事長の西園寺裕夫氏などのやんごとなき方々が名を連ね、名の通った名士ではオリックスの宮内義彦氏,服部セイコーの服部真二氏、元厚生大臣の林芳正氏等、ほか幾人もの政治家も並んでいる。その他多くは企業経営者、弁護士、会計士、医師、歯科医師などである。
 紅一点で作家の林真理子氏が出ていたが、いつも思うのだが、彼女は多く場面で、出しゃばり過ぎで目障りにしかなっていないとなぜ気が付かないのでしょうか?小説家というものは、意外と現実検討識は低いものなのですねえ。それにしても、皆の頑張りに見合うような努力も(日頃挑戦しているというダイエットを成功させて)見せてほしかった。

 

 ポスターには「戦後の日本を支えてきたすごい男

キャスティングープログラムから

キャスティングープログラムから

たち150人が男女を演じる」とあるから、メンバーは、それなりに自負心も顕示欲も強い方達なのでしょうが、それでも延べ1200時間以上の猛錬習を重ねてきたというから、意気込みはマジで真剣である。
 事実、友人は、この数か月は練習最優先の生活をして来たようである。ちょうど主役どころとバックのオオゼイのダンサーとの中間にいる人達は、舞台の成否を握るカナメに当たる40,50代の人であろうか、彼らはダンスも形になっており、その代表格の友人はまさに練習の成果が実を結び、まるでジョージ・チャキリスのように脚は高く上がっていたし、飛び上がって足で拍子をとるような仕草も様になっていた。特に劇中のSinging in the rainは良かった。

 概して独唱、合唱は予想以上に上手であった。日頃から六男は毎週定期練習をしているそうであり、歌はさすがにその成果が出ていたように思う。

 ちなみに西に宝塚、東に六男ありというそうだが(ポスターのコピーから)、最近は「名古屋にカズラカタ歌劇団あり」とも言うそうである。
 僕の出身校でもある名古屋の東海高校の学園祭の出し物が発展してカズラカタ合唱団(タカラヅカの逆読み)を結成して定期公演をやるようになり、今や名古屋では入場券にプレミアがつくほどの人気らしい。
 東海高校は男子校であるから、昔から文化祭ともなると女装する出し物は必ずあったし、ボンボンの美形も多かったから、それは、何となく頷けるのである。
 You tubeで見てみると、舞台は女子高生ばかりか母親年齢を超えるような女性達の手拍子で宝塚以上の大変な盛り上がりである。

 カズラカタ歌劇団は、六男と違って平均年齢は17歳と圧倒的に若いので、ダンスも美貌も比べようもないが、六男は,先駆者のプライドをかけて、名古屋を、それなりに意識しているらしい。
 しかし、僕から見れば、六男は女装にしても男の履歴書からくる凄味が感じられ、こればかりはカズラカタではかなわないだろうと思うのである。

下の写真の中央先頭が友人です。-プログラムから

下の写真の中央先頭が友人です。-プログラムから

 六男を男の道楽と片付けるのは簡単だが、道楽というには向上心が強いし、趣味というには金がかかりすぎているようにも見える。(ちなみに公演費用は億円単位と聞く)

 そもそも趣味と道楽の違いは何か?

 畏敬するタレントのなぎら健一氏は、“道楽はお金さえ払えば誰にでもできるもの、趣味はその人の努力で達成されるもの”と言っていたが、そうだとすれば六男は基本は趣味であろうが、いささか自己顕示欲が強く、その為には金を惜しまないところで道楽にもなっているのだろう。

 いずれにしても趣味も道楽も持てず、人の趣味道楽に付き合う位しか能のない我が身を思うと、帰り道の冬の夕焼けの中で、我が人生は悲しくも寂しすぎると思ったものである。

 最後に六男のお知らせです。2月22日東京マラソンのオープニングパーティでは都庁前で歌うそうです。3月11日はサントリーホールで、9月はサンクトぺテルスブルグで公演ですと。
 ちなみにウエストサイズストーリーの舞台中継のテレビ放送は2月15日深夜25時から(16日1時)BS朝日で放送されるそうです。
 これもメンバーが自らスポンサーになったのではとの疑惑があります。

 

 

今年も寝正月―年末年始のテレビ鑑賞

明けましておめでとうございます。
皆さまには、良い新年をお迎えのことと存じます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

 さて、小生は今年も世のオヤジに倣って、年末年始はテレビの前で寝て過ごしました。
昨年の暮れは妙にテレビが充実していて、釘づけに近い状態になったが、今年は番組が単発で、しかもおざなりなものが多く、見るべきものが少なかったように思う。
印象に残ったのは3,4個であった。

 31日の昼間にBSジャパンで放送した「孤独のグルメ-season3」を見た。
この番組は丁度一年前の暮れに見つけて、感動したことは一年前のブログでも書いたが(CASA-AF:2014.01.06)、その後は通常の放送で見ることもなく一年がたち、また特番で12話を全部見ることになった。
昨年との違いは、あからさまに芝居がかった演出が多くなり、お店の人や客の演技が不自然で目障りで、興ざめになったことか。視聴率が上がり、演出家が視聴者を意識しすぎるようになったのかもしれない。
それと、原作者の久住昌之が相変わらず最後に登場するのは余分であったと思う。

1日BS朝日の「ザ・インタビュー」という番組は中々面白かった。インタビュアーとの組み合わせも良く、人物像が良く引き出されており、興味深く見ることが出来た。
井上陽水には吉永みち子がフランクに突っ込みを入れ、陽水がこれまた受け流すように自分のスタイルを崩さず答えていた。小椋佳には野際陽子で、小椋の作詞の裏話が語られ、彼の計算的で理詰で理性的な姿勢が、陽水とは対照的で面白かった。小椋が生前葬コンサートの後の今後も一所懸命音楽活動をしようものなら、“大変ですね、ご苦労さん”と言いあの薄ら笑いが目に浮かぶようであった。スタイルはどうであれ、二人とも社会的に成功した人の余裕が垣間見え、同世代の僕には味わえない心境であるようにも思えた。

 1日のNHKスペッシャル[戦後70年を迎えて]では、全般にタモリのトークが光り、彼の教養、知性の深さが垣間見えた番組となっていた。
タモリは、今や資本主義は行きづまっているが、それに代わる新しい資本主義は日本から生まれるのではないかと期待を述べていた。
 NHKBSプレミアムの映画『グリーンマイル』は死刑囚をめぐるヒューマンな超能力の話でとても面白かった。トムハンクスはやはり名優であった。

 1日深夜にNHKEテレ「日本のジレンマ元日SP大転換2015・40才以上は入場禁止?」をみた。30代までの政治学者、経済学者、起業家、作家、サラリーマン、OLなどのパネリストを200名のフロアーオーディエンスが囲む大討論会であった。
 年齢的には入場禁止であったが、今時の若者の知性に興味があり、夜更かしをして見た。
 政治経済の話が中心で(科学者がいなかったこともあろうが)、今話題のピケティの「21世紀の資本」と水野和夫の「資本主義の終焉」を話題に、資本主義の在り方について多くの発言があった。新資本主義では行き詰ること、ケインズの修正資本主義に倣い一定の政治介入の必要性や、性善説の資本主義など意外な発言が相次いだが、僕が感じたことは以下のようなことであった。
 皆一様に自分の意見はきちんと伝えるが、ⅰ)議論は決して白熱化しないことである。あの「朝まで生テレビ」で見せる昔の大人たちの興奮ぶりとは対称的なのである。今時のヤングアダルトは、大人といえば大人の振る舞いであるが、これ以上討論して論破しても意味が無い、自分も意見は変えないだろうから、相手も決して考え方を変えないだろう、というような醒めた達観があるかのようにも見えた。相手を傷つけまいとする今時の優しさから来る面もあるのかもしれないが、、。
 ⅱ)現実と思想の乖離に無頓着である、ということ。彼らは新資本主義の言うトリクルダウンを信じていないし、格差が行き過ぎていることも理解している。にも関わらず、選挙にも行かず、バリバリの新資本主義の安倍政権を許して看過している。まずいと感じていながら、何ら行動しようとしないのである。歴史の流れに乗り遅れないようにはするが、流れを自らの手で変えようとする気概は全く感じられないのである。

 最後に、4日の深夜NHKBSプレミアムで「木の上の軍隊」を見た。去年の春にbunkamuraシアターコクーンで上演され評判をとった芝居である。井上ひさしの遺作になった戯曲を蓬莱竜太が脚本にして栗山民也が演出したこまつ座のお芝居である。出演は藤原竜也、山西惇、片平なぎさの3人で、舞台はワンセットという簡素なものであったが、息もつかせないような緊張感で2時間はあっという間に過ぎた。
 太平洋戦争の最後の局地戦となった沖縄のとある島で、米軍に追われてガジュマロの大木の上に逃げ込んだ本土から転戦してきた上等兵と、沖縄出身の志願兵である新兵の2人が、終戦をはさんで2年間もの間、木の上で隠れ住んだという実話に基づいて書かれたものである。
井上流に笑いを取りながら、国家とは、故郷とは、人間とは何かを鋭く問いかけて来る。まさに井上流に、易しく深く、面白く、生真面目に問うのである。

そんなカンやで、正月はうたたかの間にすぎ、また、今年も始まってしまいました。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

紀尾井町の年の瀬雑感-イエス・ジョージで〆でした。

思い出小僧もクリスマス

思い出小僧もクリスマス

 紀尾井町に仕事場を持って1か月半が経ち、早くも年の瀬になりました。
麹町駅前の‘夏の思い出小僧’もいつの間にかクリスマスの装いをしていました。
プリンス通りの銀杏並木も葉が道路に舞ったと思ったら、いつの間にか、すっかり丸坊主になってしまいました。
紀尾井の森も清水谷公園の紅葉も終わり、いよいよクリスマスと正月を迎える準備をしているかのようです。

紀尾井アートギャラリー

紀尾井アートギャラリー

  僕のクリニックの斜め前に紀尾井アートギャラリーという芦原太郎設計の美しい建物があります。アルファ国際学院という外国人向けの日本語教師養成学校を経営している梶原淳代さんという女性が館長をしていますが、実は、僕が、通勤車の駐車場が無くて困っていた時に手を差し伸べて下さった、僕の車の駐車場の大家さんでもあります。ここは、彼女の道楽がこうじて出来たギャラリーのようなものです。

 そこでは、「江戸の伊勢型紙美術館」と言う、三重県の伊勢地方に産まれた着物の文様の型紙を、江戸時代から昭和に至るまでのものを5000枚ものコレクションをして展示する常設館を併設しています。

江戸型紙紙美術館

江戸型紙紙美術館

江戸型紙紙美術館

江戸型紙紙美術館

 型紙は、紋切りという家紋の型を切るのと基本は同じ様な技法なのでしょうが、伊勢型紙の、その細かさ、デザインの精緻さは比べようもないもので、幕末にシーボルトが浮世絵と共に型紙を大量に持ち帰って、それがヨーロッパの当時のジャポニズム運動に影響を与えたと言うのもうなずけるところです。

 そのアートギャラリーで、12月27日まで万華鏡作家の中里康子の作品展をやっていたので見学に行ってみました。

中里康子の万華鏡

中里康子の万華鏡

 万華鏡といえば、小学校の工作で、細長い鏡で三角柱を作って紙の円筒に入れ、その中に下敷きや千代紙を細かく切って入れて作った記憶があります。昔の子供たちは、動く画像自体が珍しく、あれでもそれなりに感動したものでした。

 さて、中里康子の作品は、万華鏡世界大会に何度も優勝しただけの事があって、想像を絶する美しいものでした。国際大会ともなると、万華の像の美しさだけでなく、万華鏡の胴体、箱の部分のデザイン性も大事で、箱を日本らしい漆・蒔絵にした時に優勝したので、それにヒントを得て、昨年は伊勢型紙のデザインにしてみたら高い評価を受け、再び優勝することが出来たとのことでした。
 その伊勢型紙を提供したのが縁で、今回の個展ということになったようです。
 大きなものはカメラで覗けたので、その写真を載せておきますので、その驚異の景色を垣間見てください。

世界大会優勝の万華鏡

世界大会優勝の万華鏡

万華鏡の世界①

万華鏡の世界②

万華鏡の世界②

作品は販売もしていたのですが、芸術性の高い大きなものともなると、数百万円にもなり、手頃な大きさかなと思っても数万円はしてビビったのですが、もっとも安い玩具のようなものは数千円からあり、それならばと、スタッフの誕生日プレゼントやちょいとした紀尾井町土産にしようと僕もいくつか買っておきました。

 紀尾井町名物といえば、数年前まではシャレ―栄陽堂の手作りチーズケーキ(ホルトハウス房子風の)がありましたが、今は閉店したので、それに変わるものはないかと探していたところでしたが、このアートギャラリーに、『ふくら雀』という和三盆で出来た干菓子が置いてありました。

ふくら雀

ふくら雀

 ふくら雀というのはスズメと麻の葉を描いた日本古来の吉祥文様で、伊勢型紙にも使われており、紀尾井のロゴにもなっています。その干菓子もこのふくら雀の形に作られていて、味わいも上品で、パッケージも中々お洒落ですし、紀尾井の森に繋がるストーリー性もあり、これからクリニックのお土産にしようと今は大層気に入っているのです。

 ところで昨日は、階下の美容室イエスジョージと美容整心クリニックのジョイント忘年会をしました。

イエスジョージサロンでの忘年会

イエスジョージサロンでの忘年会

お宝ーイラストレーター黒田征太郎作の看板

お宝ーイラストレーター黒田征太郎作の看板

その裏側

その裏側

オードブルー百田輝のお皿で

オードブルー百田輝のお皿で

 というか、ジョージ氏が、我々3人が日頃、暇してしょぼくれているので、招いて励ましてくれたのです。
 クリニックのスタッフも、日頃,飲み会、宴会の機会も無いので,嬉々として参加して、ワインをタライ飲みしてきました。ジョージ氏も僕も寄る年波には勝てず酒量はめっきり少なくなりましたが、若い人、ことさら女子の成長ぶりには目を見張るものがありますねえ。
 宴会も出される料理とその器によって雰囲気が変わりますが、当日の器はすべて陶芸家百田輝の作品で、ジョージ氏らしい趣味の良い飲み会の雰囲気になりました。
 但し、僕は着古したチャンチャンコ姿の参加で、場違いなTPOで紀尾井町には少々そぐわなかったかと反省しています。

今年最後の一枚,ジョージとスタッフと記念写真(2)

今年最後の一枚,ジョージとスタッフと記念写真(2)

 今年は、個人的には変化の多い年になりましたが、自分の思いが叶って幸せな年となりました。
 今はクリニックの自室で、ブラインドの隙間から太陽の光が射し込む机に向かう毎日が嬉しいし、すべての時間が自分のものであり、すべてを自分で決められる自由を得た喜びに満足しています。これは今までの宮仕えでは味わったことのない幸福感でもあります。

 それに、今さらではありますが、人は結局は非力なものであり、一人では生きていけないものだとつくづく思います。今までは、自分の力だけで生きてきたように思いがちでしたが、群馬の生活以降は、多くの人の力、とりわけ家族の絆に支えられて自分がある事に思いが至るようになりました。
 海外にいる息子が、サミエル・ウルマンの「Youth青春」の詩を送ってくれ、「新しい事をするのに遅すぎるということはない」と言って励ましてくれたのも力になりました。
 人は、相手に投影された自分を見て、己を知り、自分の立ち位置、振る舞いの仕方を決めて行きます。
 意思があるということは、対話し干渉する力があるということで、また干渉されて変わっていける力があることでもある、という人がいます。
来年は、ことさら自分の意思にこだわって、自分を変革して行こうかと思っています。

 皆さまには、この一年間、僕のつたないブログにお付き合いして頂き、本当にありがとうございました。
 皆さまも、どうぞ良い新年をお迎え下さい。

 

 

修善寺あさばの能鑑賞―人生一度の経験

 今年の春の3月に修善寺あさばに行った時に、今年の芸能の予定表を見ていたら、10月の2日に能の舞台があることを知り、当日が木曜日なので、家人が休診日でもあり、良い機会と思い、予約を取ることにした。ご承知のように、予約は4か月前からであり、6月1日朝8時に電話することになった。たぶん忘れるのではないかと危惧はしていたが、それくらいしか仕事の無い身の上故、しくじらないように二重赤丸を付けておいて、無事電話をかけ、能舞台の真正面の雨月という部屋を予約できた。

 それから4か月は、あっという間に過ぎた。美容整心クリニックの場所探しに奔走していたからである。

 10月2日は朝から車を磨いて、テンション高く出かけたのである。
いつも、ご一緒するY氏夫妻と今回も一緒であり、しかし今回は部屋を二つもらうのは、はばかられたので、相部屋で泊まることになっていて、なんとなく双方が緊張していた。
 が、着いてみると、隣室にキャンセルがでており、結局はお互いの鼾と、夜中のトイレを気にせずに泊まることになった。

揚幕のかかった能舞台

揚幕のかかった能舞台

雨月は簾のかかった対面の部屋です

雨月は簾のかかった対面の部屋です

部屋から舞台を臨む

部屋から舞台を臨む

 能は夕方6時開演なので、それまでにお風呂に入り、御主人差し入れのシャンパンで一息ついて待機していた。
 日が暮れてくると、箱船に乗って池の要所要所のろうそくに火をつけて回るのも風流であった。
 出演者が三々五々に集まりだし、申し合わせ(リハーサル)を始めると、いよいよの期待感が高まり、私達は浴衣を着替えて、廊下に椅子を並べて、待機していた。
 いつもは人気のない、ただの舞台だが、当日は橋懸に揚幕がかかり、能舞台の臨場感が伝わってくる。部屋からは、舞台は真正面に対峙して距離は10mほどである。

 私は能を見た経験は無く、すべてが初めての経験であった。

 能はシテ、ワキの能楽師、太鼓、大鼓,小鼓,能管(笛)の4種類の楽器を奏でる囃子方、謡、地謡(バックコーラス)いう謡曲を謡う人達で成り立っている。
 能の主人公は「シテ」と呼ばれ、多くの場合はシテが演じるのは神や亡霊、天狗、鬼などの超自然的な存在であり、そのような役を演じる曲を夢幻能といい、生身の人間を演じる曲を現在能というらしい。

 「ワキ」の僧侶がシテの霊に会い、死してなお苦しむ執念や妄念を聞き、舞を舞って成仏させるというのが夢幻能の基本構成である。

プログラム

プログラム

プログラム

プログラム

 さて、当日の演目は「融」で、とても有名は題目らしいが、もちろん私は聞くのも初めてのことであった。
 シテは光源氏のモデルになったと言われる源融大臣で、かつて優雅に遊んだ場所が今や廃墟になっているのを嘆き霊になって現れるのをワキの旅僧が聞くというもので、前シテに汐汲みの老人がでて源融大臣を呼び出す前座を務めるという夢幻能の一種であった。

 能楽は、徹底的に簡素化された様式美の芸術で、太鼓、大鼓,小鼓,能管(笛)の4種類の楽器で演出のリズムを囃すのだが、謡の音階や間拍子には全く合わせないものと言う。囃子は謡に合わせる伴奏ではなく、音階は非科学的、非論理的だが、芸術的には極度に厳密に構成されているものだという。

 あさばの能舞台は室内ではなく、自然の中に懐かれ、池に浮かぶような設定であるから、暗闇の中に舞台がライトアップされ、装束も一段と美しく、まさに幽玄というのが相応しい世界であった。鼓の音も、笛の音も、京都の都踊りとは比べるもなく、研ぎ澄まされた響きで天空に舞った。
 身動き一つさせないような緊張した空気に支配されながらも、まさに心が浄化される思いであった。

 後で知ったことであるが、能のリハーサルは「申し合わせ」と言い、当日、演ずる直前に一度行うだけという緊張感に満ちたものであり、能は一演目一回限りのもので、能楽師と見所(客)が一緒に作り上げる時間と空間で構成されるものであるという。再演は基本的にしないもので、見たければ年単位で待たなければならないという。

 だから、一旅館のイベントとは言え、舞台はあくまでパブリックなものであり、決して宿泊客のプライベートなものではないということである。客は浴衣を着替えて、身を正して観劇しなければならないし、ましてや、がやがや声をあげてはいけないし、写真など取ってはいけないのである。

 その点、小生はあまりに無教養であり、品性の劣る客であったと赤面の思いで,多いに反省する所があった。つまり、ノンフラッシュとはいえ、写真を撮ってしまったのである。

 しかしながら上記のような理由で、能舞台実演中の、あの感動的な幽玄の世界の写真は今は無く、ここではお見せすることは出来ません。

新しくなった内風呂

新しくなった内風呂

檜壁板は良く出来ているがフェイクでした。

檜壁板は良く出来ているがフェイクでした。

 ところで、旅館あさばは、少々変貌していました。この半年の間に廊下を畳敷きにしたり、部屋付きの風呂をリフォームしたりしていました。驚いたことに、壁の檜板はプラスチックでしたが、妻は気付かなかったほどの精巧さで、技術の進歩に感心しました。しかし、とは言えあさばがそれを使うか、という気もしましたが。

夕食メニュー

夕食メニュー

麩饅頭はとても美味

麩饅頭はとても美味

 料理も、献立は同じでも味が明らかに変わっていたので、いつもの仲居さんに尋ねると板長は既に2年前位に代わっていると言うので、そうであるならば、板長がそろそろ自分らしさを出してきているのかなあ、と納得した。
 その味の変化、良し悪しは、実際にお行になってご自身で評価されてください。

 無理に変えることはないのに、というのが僕の評価です。

 しかし、あさばも、昔の伝統に裏づけられた、どっしりとした揺るぎなさが失われつつあることは、肌で感じますね。

 今は、熱海伊豆山の蓬莱の二の舞にならないことを祈るだけです。

 そのためにはあさばファンがせっせと利用するしかありません。
 私達は、正月に息子夫婦が帰国することもあり、正月に再訪する予定です。

車を磨いたので記念写真

車を磨いたので記念写真

 

フランス大使公邸でニキータごっこ―ST.Dupontのパーティに行った

 (私のウエブサイトがリニューアルされたのを記念して、今週は水曜日に続き第二弾を載せます。記念号にふさわしい?内容になっていますのでお楽しみに。)

 ST.Dupontの新作発表会が9月下旬にフランス大使公邸であり、招待状が来たので、同伴者を募ったところ、M嬢が名乗りを上げたので、夕方を見計らって、行ってみた。

フランス大使からの招待状

フランス大使からの招待状

 もう締め方を忘れてしまいそうな位、久しぶりに、ネクタイを締めてのお出ましになった。

 M嬢は英、仏、伊語をこなす才媛なので、僕の秘書兼通訳を装ってもらった。

 ただ年寄と若い御婦人が、距離を置いて佇んでいても様にならないので、始めからちょっと怪しい雰囲気で行こうよ、と密約を結んでおいた。
 つまり、雑誌レオンのニキータの役回りをお願いしたわけである。さしあたって小生は、ちょい悪オヤジ気取りという次第である。

 今は、小生のような年齢のちょい悪オヤジは、レオン世代からはヤンジー(やんちゃジジー)と言われ、ニキータも昇格して姫―ナと言うらしいが、この時点では、まだ雑誌MADUROは発行されておらず、ニキータであった。

 フランス大使公邸は大使館に隣接しているが、入り口は離れており、少々迷ったが、到着しても、門はしっかり締まっており、近づくとガードマンが招待状をチェックして入れてくれた。
 玄関口で再度身分チェックがあり、ようやく会場に入れた。

公邸の門で

公邸の門で

中世の甲冑がお出迎え

中世の甲冑がお出迎え

 

 入り口でシャンパングラスが渡され、同時にデュポンの社員にガードされるようにして、商品説明を受けることになった。歴代のライターや万年筆の名品や新作などが、きれいにディスプレイされており、皆興味深く、余り退屈することはなかった。

今風の日本画の美しい屏風が置かれていた。

今風の日本画の美しい屏風が置かれていた。

会場風景

会場風景

 シャンパンは、宴会のビールのごとく、飲み切ることなく継ぎ足しされ、お蔭でぐいぐいとアルコールは回ったのである。

 途中で本国フランスから来ている,彫金のマイスターのデモがあり、ついでに体験彫金をさせてくれた。この辺りから、酔いも本格的に回って、緊張感もとれ、ついスカルのカフスを予約してしまった。(家人からは、何も買うなと厳命されて来たというのに。)

彫金の体験

彫金の体験

 ニキータにも、もちろん心遣いはしたのだが、魂胆怪しまれ固辞されてしまったのは、ヤンジーの技が未だ未熟なるせいかと反省した。(ここら辺りは畏友ジョージの指南を受けなくてはならない。)

 そこいらまでの展開で、テラスに出て、シガーを吸うことにした。
 無論フリーサービスである。Dupontのシガーカッターとライターを使っての美しい所作で火を付けて渡してくれた。

慣れないシガーをふかして。

慣れないシガーをふかして。

 小生は日頃喫煙の習慣はないが、ごくたまにシガーは吸うことがある。友人Y氏夫妻が食後にはシガーを吸われるので、時々真似をする程度である。

 公邸の庭は広い芝生が緩やかな波を打ち、先には大きな灯篭と落葉樹が植えられ、和風の仕立てであるが、テラスはフレンチモダンのデザインで異国風に居心地よくバランスがとられており、、初秋の爽やかな気候も相まってテラスはとても快適であった。

庭園

庭園

無題

無題

 何種類ものアミューズが運ばれたが、意地汚くも全種類食べた。ニキータも同じように食べ飲んでいた。多分、彼女もニキータ気取りも悪くはない、と思っているのではないかと勝手に妄想した。

 当初は30分位の滞在の予定であったが、1時間以上いて退散した。夕食の予約時間はとうに過ぎていたのである。

 帰りにはお土産を各々にくれた。ST.Dupontのエンブレムが彫られたキーリングであった。

出口の琳派風屏風の前で記念写真

出口の琳派風屏風の前で記念写真

お土産のキーリング

お土産のキーリング

 その後、至近にある、馴染のラシエット・ブランシェで夕食を食べた。
 アペリティーフは既に十分飲んできたので、すぐに白から始めた。
 二人で白のグラスを6杯、赤を4杯飲んで、すっかりご機嫌になり、ニキータごっこも佳境に入り、訳あり風の記念写真をとった。

訳あり風に

訳あり風に

これはセクハラでした。

これはセクハラでした。

 これは、後で考えると、殆どセクハラと言っていい失態であったようで、M嬢には大変ご無礼致しました。

 ただ、家に帰ってからデジカメを覗いてみると、中々堂に行ったもので、良い雰囲気が出ているのではないかと、一人でニンマリとほくそ笑んでは、何度も見ては反芻して楽しんだのである。

帰りの別れ際に、今後もニキータごっこを継続しましょうと、さらなる密約の延長を申し出たのでありますが、さて、返事はどうであったか、老人の事ゆえ忘れてしまいました。(チャンチャン。)

 

 

2014年夏休みーその2:信州の鎌倉・別所温泉を行く。

 お盆休みに、2回目の夏休みを取り、「信州の鎌倉」と呼ばれている別所温泉に行ってみた。歴史的には北条氏のゆかりの鎌倉時代建立の神社仏閣が塩田平、別所温泉界隈に点在することから「信州の鎌倉」と例えられるようになったと言う。
 上田市から上田電鉄が走っていて、ちょうど鎌倉の「江ノ電」の山バージョンと言えるようだ。

 別所温泉に行くのは2度目であるが、泊まるのは初めての事である。
 蓼科からは国道152号線を松本方面に進みから平井寺トンネルを越えればすぐである。別所温泉に入る手前に大きな池の中に浮いたように朱色が目立つ生島足島神社があったので寄り道してみた。

生島足島神社

生島足島神社

生島足島神社

生島足島神社

 案内によれば、生島大神は生きとし生けるもの万物に生命力を与える神であり、足島大神は生きとし生けるもの万物を満ちたらしめる神であるとあり、日本国土の守護神であると書いてあった。歴代天皇が、都を定める時には必ず生島来島の二紳を鎮祭するそうで、明治天皇も東京遷都の折にはそうされたとある。
 なんだか元気がもらえそうな気がした。
 そこでお昼ご飯にしようかと、車の中の弁当バッグを探すも見つからず、どうやら蓼科の山荘に置き忘れてきたようであり、いささかショックであった。  
 僕が、朝早起きしてご飯炊いておにぎりを作り、前回の休みに木曾の奈良井宿で買った木曾わっぱの弁当箱に入れ、楽しみにしていたというのにだ。

 ここで、忘れたのは誰のせいかで、少々ディベートがあった。
 「作った本人が責任をもって持って来るべきだ。」と家人は主張して譲らない。自分には非は絶対ないと主張する頑迷さは、悲劇的に生来性のものであり、間違っても、かような性格を醸成したのは、決して私ではありません。この点は私も譲りません。

 早起きして、おにぎり作って、あげく叱られて、これこそ今話題の家事ハラの極致でしょうか。

 別所温泉は四方を山に囲まれ、塩田平と言われる盆地に位置する。その中央を浦野川が流れ上田近くで千曲川に合流する。盆地の一画がさらに低い山で囲まれ、その真ん中に別所温泉はある。その山の向こうが昨年訪ねた青木村である。(CASA=AF2013.05.24)
温泉街の真ん中には、ご多分に漏れず、川が流れていて、この湯川は多分、浦野川に合流するのだろう。その川を挟むようにいくつもの温泉旅館が建っており、川沿いには、愛染桂で有名な北向き観音や共同浴場や上田紬の老舗などが並んでいる。

白秋の歌碑

白秋の歌碑

北向き観音

北向き観音

上田紬のお店

上田紬のお店

 上田紬は、大島、結城紬と並んで日本三大紬の一つで、手織り感やアースカラーの色合いがとても気に入り、家人に薦めるのだが、自分は着物を着ることはもうないからと、また頑迷である。それでは僕がと思ったのだが、残念なことに男物の反物は置いて無かった。仕方ないので、印鑑入れや巾着袋など小物をいくつか買った。

指輪入れ

指輪入れ

印鑑入れ

印鑑入れ

 別所温泉は、信州最古の温泉で、伝説では日本武尊の東征の折に発見されたとも、天武天皇が入湯のために造営させたと日本書紀にあるとも言われている。  
 文学とのゆかりも深く、古くは清少納言が、枕草子のなかで、兵庫の有馬温泉、島根の玉造温泉と並んで3名泉の一つとしてあげているそうであり、近代以降では川端康成、吉川英治らは別所温泉を舞台にした小説を書き、池波正太郎は真田幸村関連の小説を書くために頻繁に、この地を訪れたようである。
 映画では、「男はつらいよ寅次郎純情詩集」や「卓球温泉」、「君のままで」のロケ地にもなっている。

 初めての訪問時は、車で通りがかった程度であったので、「信州の鎌倉」は少し大袈裟ではないかと思ったが、今回ゆっくり来てみると、周辺のお寺、神社はどれも風格のある立派なもので、鎌倉の例えが決して法螺ではないことが分かった。豪壮な茅葺の屋根の社や立派な塔があちこちに、いくつも建立されているところなどは、むしろ鎌倉に引けを取らないと言えるほどである。

 僕は本家の鎌倉では、唯一の茅葺で古色蒼然とした杉本寺が昔から好きであるが、別所温泉の常楽寺の茅の屋根の美しさ、豪壮さには遠く及ばない。それに寺社の敷地がけた違いに広く、アプローチも深い林の石段であったり、途中に大きな蓮池があったりして本殿に至る道も楽しいものであった。

常楽寺

常楽寺

参道の石段

参道の石段

蓮池

蓮池

 また、お盆休みの最中というのに、人影もまばらで、古いお寺と一対一で対峙出来たような贅沢な気分にすらなった。

 今年のお盆は天候には恵まれず、全体に雨模様であったが、この日だけは晴天で、盆地の暑さは相当なものであったが、寺の境内に立てば、桔梗のお花畑を涼風がそよぎ、夏の信州にいる快適さをしみじみ感じさせてくれた。

桔梗が咲いていた

桔梗が咲いていた

 その晩は花屋旅館に泊まった。何でも大正6年創業の戦前の日本建築の粋を凝らした離れ屋形式の建物で、長い渡り廊下が印象的であった。久しく経験したことのない、どこかで見たような昔の家であった。

花屋旅館の廊下

花屋旅館の廊下

お風呂に向かう廊下

お風呂に向かう廊下

離れ部屋をつなぐ廊下

離れ部屋をつなぐ廊下

 お湯は軽く硫黄の匂いのする、暑めのお湯で、大正ロマネスクのステンドグラスのある大理石の大浴場は見ごたえのあるものであった。

大理石風呂

大理石風呂

 食事は、千曲川の鮎を始め、山の幸が中心で比較的質素で淡泊な感じではあったが、長い伝統に育てられた,奇をてらわないしっかりとした味わいのある料理であった。温泉街と山麓の寺巡りで疲れた体に、お風呂疲れも手伝って、その晩は早くからぐっすり眠った。

 翌朝はすっきり目が覚め、朝食を食堂でとり、お土産コーナーでみすず飴とジャムを買い、バレットサービスで玄関に廻された車で帰途についた。

 どうでもいいことだが、事情通によると、花屋旅館は上田のみすず飴の飯島商店の経営だそうである。(どうりで夕食のデザートはみすず飴本舗のゼり―であった。)

 温泉街から蓼科に向かって走ると、いくつものお寺の案内版が目に入るが、その中の一つの前山寺という寺に、無作為に寄ってみた。
 これがまた大正解で、壮大なお寺であった。参道には巨木の欅が並び、大きな本堂は見事な茅葺で、立派な三重塔も聳えていた。
 人にも会わず、信州の山間の里の寺ならではの僥倖を喜んだ。

前山寺山門

前山寺山門

前山寺三重塔

前山寺三重塔

前山寺本堂

前山寺本堂

参道の欅の巨木

参道の欅の巨木

 そして昼前には我が山荘に帰り着き、午睡を楽しんだのである。

 昨年訪ねた青木村と同じ匂いの空気が流れ、信州の田舎の温泉は、群馬の里山の温泉とは、上手く表現できないが、一味もふた味も違うものであった。
 食事やもてなしのサービスは、やはり信州の方が数等上であるというのが、私達の一致した意見であった。
 花屋旅館は前回の扉温泉明神館とは旅館のコンセプトが違うので一概に比較できないが、ほぼ同じ料金設定を考えると、再訪は明神館だろうというのも同意見であった。
 また再来年の大河ドラマが「真田幸村」に決ったそうで、上田、別所温泉もさらに脚光を浴び、混雑するだろうから、今年訪ねたのは幸運であったと話しながら、忘れて行ったおにぎりを食べつつ、去りゆく短い信州の夏を今年も惜しんだのでありました。

前山寺からを臨む塩田平

前山寺からを臨む塩田平

いたる所に地蔵がある。

いたる所に地蔵がある。

 

 

2014年夏休み、その1―マクラーレンと扉温泉・明神館

 今年も梅雨明けに合わせて最初の夏休みを取った。
7月末に恒例の蓼科の山荘に行ったが、今年は友人Y氏夫妻を扉温泉明神館にお誘いした。
 明神館は昨年訪ね、辺鄙な山間に予想を超えた温泉宿があり感激し、ここならと、自信をもってお誘いしたという訳である。

 私達は一日早く先に山荘に行っており、夫妻をまずは山荘にお迎えしたわけだが、待ち合わせ場所にマクラーレン(カーライフ2014.02.19)がいたのには驚いた。ビーナスラインは兎も角として、扉温泉への道は一般的に言って山岳道路である。まさかマクラーレンで御登場とはびっくりした。メルセデスか、せいぜいGTRだろうと予想していたからだ。

蓼科山荘とマクラーレン

蓼科山荘とマクラーレン

茅葺の屋根に似合う。

茅葺の屋根に似合う。

 マクラーレンともなると、普通は、車を鑑賞する為のガレージハウスに納まって、オーナーが悦に入って眺めるという、いささか成金趣味的な嫌味なイメージがあるが、
「車は走ってナンボ」と言わんばかりに、多少ボディが傷つく位は気にしない剛毅さが、Y氏はやはり三河人である証拠である。

ウエルカムドリンク

ウエルカムドリンク

 ともあれ、舗装もしていない凸凹道をマクラーレンは車高を上げながら快走したのである。マクラーレンがオープンにしてビーナスラインを走る姿は絵になると思うのだが、私が先頭を走ったので、その姿が見られなかったのが悔しいが、その思いは当のY氏も同じであろう。
自分の運転する車の姿形が見られない悔しさは、エンスージアストがしばしば経験することではある。

明神館の立湯

明神館の立湯

 扉温泉については、昨年の記事(CASA=AF2013.10.7)に書いたので、省略するが、部屋に2014年度版ルレ・エ・シャトーが置いてあり、よもやと思いながらページをめくるとTOBIRA ONSEN MYOUJINKANと載っているではないか。
ルレ・エ・シャトーは、5つのC(coutesyおもてなし,charm洗練,character個性,calm落ち着き.cuisine料理)を認定獲得したホテル、レストランのみが加盟できる組織らしいが、日本では「修善寺、あさば」、「箱根、強羅花壇」、仏料理「ラ・べガス」、和食「青柳」など僅か11の旅館、レストランだけが名を連ねていただけである。
レストランは兎も角、旅館はかなりいい線をいっていると言うのが、個人的な感想である。ルレ・エ・シャトーはミシュランの厳選バージョンと思えばいい。

ルレ・エ・シャトー

ルレ・エ・シャトー

右ページが明神館

右ページが明神館

 夕食は、今回は早くから予約してフレンチSAIにした。
明神館の夕食は、フレンチ、懐石、創作和食の順で人気らしい。さすがにルレ・エ・シャトーに載るだけのことはあり、都内の一流どころに引けを取らないものであった。
どちらかというと、オテル・ド・ミクニのスタイルに近い。
ワインは信州産の白はシャルドネと赤はメルローを飲んだが、料理にとてもよく合って、私的には十分満足できたものであった。

メニュー

メニュー

 蓼科、霧ヶ峰は7月の末は高山植物的には寂しい季節である。ニッコウキスゲには遅すぎるし、マツムシソウには未だ早い。

 山荘に来れば、必ず訪ねる車山の肩にあるコロボックルヒュッテに今回も行ったが、隣のお花畑には僅かにニッコウキスゲが残っていた。

ニッコウキスゲ残花

ニッコウキスゲ残花

嬉しくはあったが、他にはどこにも見当たらず、あたかもそこに人為的に植えたかのようでもあり、孤高の気高さといえば聞こえは良いが、なにか不自然にも感じた。

 やはりニッコウキスゲは群生してこそ美しい。

 それとコロボックルヒュッテは創設者の手塚宗久氏が亡くなって(CASA=AF2013.09.13)雰囲気が変わってしまっていて、寂しい思いがした。
 多分多くのコロボックルのフアン、常連は同じ思いだと思う。

 二代目は昔ながらの山小屋経営というより、観光地のカフェ経営の感覚なのであろう。

 人気の一人分づつサイフォンで沸かすコーヒーも形だけのものになっていた。

 コロボックルの形だけが残り、霧ヶ峰の自然を心底愛した宗久氏のヒュッテへの思いが失われていくのは、手塚さんばかりでなく、多くの霧ヶ峰とコロボックルフアンの望むところではないだろうと思う。

車山湿原、早くも、赤とんぼが

車山湿原、早くも、赤とんぼが

 

 

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