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ラプラスの妄想

安倍内閣を許した日を後悔する日が必ず来る―我々はなぜ歴史から学べないのか?

今日、明日にでも安保法制が採決され、日本が戦争のできる国になる。
安倍首相の言う、武力で自国を守れる普通の国になるのだ。
今まで、この欄で何回か、安保法制のもたらす未来の危うさを述べてきたが、改めて安倍の独裁政治に万感の思いを込めて反対する。安倍政権のやろうとしているコンテンツ(内容)とコンテナー(やり方)に反対する。
 それは安倍政権がやろうとする安保法制が、憲法に反するからではない。立憲性主義に反するからでもない。立憲主義だって、憲法が間違っていれば、元も子もないものであると思うからだ。これは安倍首相一派が言う憲法改正論に通じるものにもなるが、僕は現在の日本国憲法が人類の理想を掲げた私たちが守るに値する唯一の平和への道であると考えているから反対するのだ。

 安保法制は、その日本国憲法の9条をないがしろにするから反対するのである。
交戦権を認めない9条は、人類が今まで到達したことのない、平和を維持するための初めての唯一の思想、政治理念と思うからだ。
 これは全世界が試みたことのない、戦争をなくすための初めての創造的な試みであり、これを掲げて戦後70年間、一度も戦争に参加せず(少なくとも交戦はせず)、一人の戦死者も出さずに来たことを、私達は何よりも誇ってよいと思う。これは人類が戦争を放棄するための創造的な、ある意味では実験的な試みである。

 中国や北朝鮮が軍備を増強し挑発的な態度をとるからと言って、アメリカと一蓮托生となって、何が守れるというのか。一時的に安心が出来ても、それが何年続くというのか?一国が永遠に最強であったことがないことは歴史が教えるところではないか。
目には目をの、尽きることのない軍拡競争になって、日本の負担は底知らずになり、日本は集団的自衛権で疲弊するのは目に見えている。
 また、軍事同盟なんて当てになると思うのがお人よし過ぎる。
現に、今の安保法制の議論だって、アメリカの戦争に巻き込まれ、自衛隊員が死ぬかどうかが問題にされているが、アメリカだって事情は同じであろう、日本のために真剣に自国民を犠牲にするはずもないのだ。

 歴史を見ればギリシャ、ローマの時代から現代まで、軍事力に頼る防衛では、永続する平和を維持できないことは明らかであり、今後も決して訪れないだろう。

 もし軍事力で防衛するという立場をとるなら、政治的には中立でいて、大国の争いに巻き込まれないようにし、降りかかる火の粉を払う自律的なシステムを自力で作るほかはないと思う。それには、もちろんか核爆弾は保有するしかないだろうし、非人道的であろうと手段を選ばない世界一の軍事力を目指すしかないだろう。
これは、国民の大半が飢え、餓死しようとも核弾道ミサイルを開発し続ける北朝鮮と同じ道をたどることになるであろう。
 そんなことは非現実的であるし、第一私達はそんな日本の未来を望んではいないだろう。

 今、何故戦争の出来る普通の国に戻ろうとするのか。歴史的にダメと分かっている道に何故戻ろうとするのか。

 僕は、安保法制に賛成する、権力構造の頂上にいる人たち以外の、いわゆる体制派という人たちの考えが理解できない。
 何故権力の側につくのか?自分が権力の側にいる、いずれ権力を握るエリートとでも思っているのだろうか。
命以上の価値を持つ莫大な財産があるか、国民の生命与奪の権利を持つような権力を持っているのなら、いざ知らず、人より多いお金と、多いといっても数えられるくらいの人数の人間の上に立つからと言って、体制派を名乗ることが、いかに愚かであるか気が付かないのだろうか。
 権力はいざとなれば、ほんの一握りの権力者を守るためには、一般国民の(自分では上流と思っている人達を含めて)人間としての尊厳も、普通の生活も、僅かな財産も、命さえを奪うことは、我が国は100年足らずの間に何回も経験してきたはずではないか。

 体制のいかんにかかわらず権力構造がある限り、人は反権力、反体制でなければ、究極的には、自分の生活も命さえ守ることは出来ないのだ。

今日になって、一般の市井の市民も安保法制、安倍政権に「NO」をいい始めたが、今の体制では、自民、公明党の思うようになるだろう。(公明党が安保法制を推進した事実は忘れないでおこう。)

 大事なことは、たとえそうなってもあきらめないことだ。
 この無力感をばねに体制を変える気持ちを持ち続けることだ。
 最後に、毎日新聞にのった記事をネットから拾い、紹介しておこうと思う。
 高名なアニメ作家が政治色の無い、静かに感覚に訴える安保法制廃案の意見を言っている。まさに傾聴に値すると思うからだ。

特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 「平和」の名の下に アニメーション映画監督・高畑勲さん

毎日新聞 2015年09月14日 東京夕刊

アニメーション映画監督・高畑勲さん=東京都練馬区で、小出洋平撮影

アニメーション映画監督・高畑勲さん=東京都練馬区で、小出洋平撮影

◇「ほとぼり」を冷ますな

 「ええ、僕もあのデモに参加しました。(集合時間の)午後2時を過ぎた頃から4時過ぎまで。その場にいると分かるんですよ、人が入れ替わっていくのが。『来られて良かった』と満足して早々に帰る人もいれば、遅れて加わる人もいる。ヘリコプターで空から見ただけじゃ、本当の人数は分からないよね」

 高畑勲さんが語る「あのデモ」とは、言うまでもなく安全保障関連法案に「ノー」を突きつけた8月30日の国会前大規模デモだ。アニメーションの巨匠は多忙なスケジュールの合間を縫い、同法案に反対する大小の集会に足を運び続ける。猛暑の夏。79歳の肉体にとって、易しいことではなかったはずだ。

 デモの熱気とともに、うれしいことがもう一つあった。代表作の一つ「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994年)にまつわる話だ。東京・多摩丘陵を舞台に、ニュータウン建設工事に立ち向かうタヌキの群像を描いた。タヌキたちはそれぞれに人間への対抗策を考えるが、対立したり、クーデターが起きたりする。

 「封切られた頃はエコロジー(自然保護運動)にしか人々の目がいっていなかった。でも僕は、大勢が進む方向に賛成できなくてそれをとどめようとする時、人はどんな道を取り得るかということも重ね合わせて描いたつもりでした」。まさに今のような時代に人はどうするかをタヌキに演じさせたのだが、「最近、あの映画を見たという人たちが、それに気付いてくれたんです。時代は動いている。希望が持てます」。

 その主張は明快だ。「交戦権を否定した憲法9条を空文化し、『戦争ができない国』を『できる国』にする。180度の方向転換、政府の狙いはそれに尽きる。『総合的に判断する』とか、しどろもどろの答弁から分かるように、細かい条文など彼らにはどうでもいいんです。僕だってどうでもいい。どこかをいじれば良くなる法案ではないのだから、葬り去るしかない」

 政府は「日本を取り巻く安全保障環境の変化」を強調する一方、集団的自衛権の行使には新3要件など「厳しい歯止めをかけた」と言う。

 高畑さんは信じない。日本人には、場の空気や相手の気持ちを過剰なまでに読もうとするところがある。ひとたび戦闘状態に入れば「歯止め」など吹っ飛び、「勝てるわけがない」と言っていた人々も「勝つしかない」に変わる。同調しなければ非国民とそしられる。

 「僕はそれを『ずるずる体質』と呼んでいます。日常生活においては良い面もあるけれど、戦争においては破滅をもたらす。70年を経ても、そこは変わっていない。だからこそ絶対的な歯止めが必要となる。それが9条です」

 1945年6月29日未明、米軍爆撃機B29の編隊が岡山市を襲い、約10万個の焼夷(しょうい)弾を投下。1700人以上が犠牲となった。当時9歳の高畑少年は家族とともに逃げ惑い、辛くも助かった。この「岡山空襲」の体験は名作「火垂るの墓」にも生かされた。

 ところが、高畑さんは「あの映画が戦争を止める力になり得るかといえば、疑問だ」と言い続けている。「戦争の惨禍を伝えることは、もちろん大切です。しかし、政治家は『二度とそういう目に遭わないためにこそ、戦争の準備をするのだ』と言うに決まっているじゃないですか」

 そして「こんな言葉があるんです」と、古代ローマから伝わる警句を挙げた。

 「もし平和を望むなら、戦争の準備をせよ」

 「この言葉は、安倍晋三首相の言う『積極的平和主義』とほとんど同じ意味です。一定の説得力があり、あらゆる歴史の局面で実行されてきた。結果はどうだったか。人類は絶え間なく戦争を重ね、億の単位で人が死んでしまった」

 一方、この血まみれの警句をもじって平和への道筋を示したのが、高畑さんが敬愛するフランスの大衆詩人、ジャック・プレベールだ。

 「もしも君が戦争を望まないなら、平和を繕え」

 そらんじて、こう続けた。「英語だと分かりやすいんだけど、『準備する』が『プリペア』なのに対し『繕う』は『リペア』、つまりダジャレなんです。でも見事だと思いませんか。我々は戦争を望まない。だったら、今かろうじて保たれている平和をもっと強固にしなければ。ほころび始めたら、それを繕っていこうという提案です」

 「繕って」と言うたび、目に見えない穴を塞ごうとするかのように、両手の拳を何度も何度も突き合わせた。

 「戦争ができない国」であることを、恥ずべきことのように語る人たちもいる。

 「何に引け目を感じているのか。私たちの国は十分な国力があり、戦力まで持っていながら、『平和的に問題を処理しましょう』と自ら手を縛っている。素晴らしいことだと思うな。僕らに求められているのは、米国依存によって損なわれた『したたかな外交力』を取り戻すことであり、『普通の国』になる必要など全然ない」。そこには一ミリのぶれもない。

 そもそも安保関連法案は米国との「共闘」を進めるものだが、そのこと自体にリスクはないのか。ベトナム、アフガニスタン、イラク……米国の戦争の多くは泥沼化しているではないか。「戦争の形態は刻々と変化し、テロのリスクも増大している。世界最強の軍事力を持つ米国と一緒なら大丈夫だなんて、時代遅れもいいところですよ」

 客観的に見るなら、安保関連法案採決の日は迫っていると言わざるを得ない。だが、穏やかなその目には、絶望感のかけらすらない。

 「空気を読む」と同じくらい嫌いなのが「ほとぼりが冷める」という慣用句だ。

 「仮に安保法案が成立したとしても、『ほとぼり』を冷ましちゃいけない。この運動の盛り上がりは、成立後にだって政府に対する抑止力に必ずなる。その自信を持つべきです。最高裁による違憲審査もあるはずだ。僕は十分に(違憲の)可能性はあると思っています。もちろん政権を交代させれば法律自体を葬ることができるんです。せっかく盛り上がったのに、ここで運動をやめちゃったら、政権の思うつぼですよ」

 空気や気分に流されがちなことを自覚し、理性的であろうとする。デモや集会で抗議の意思を示し続ける。それこそが「9条の精神」を守り、戦争を遠ざける道だ−−高畑さんは自らにそう課す。

 「戦後の日本が繕いながら維持してきた平和は、世界史に例のない壮大な試みであり未来を志向している。僕はそう確信しているんです」【田村彰子】

 

ナイスな女性コラムニスト達―私は劣等感でうつ気分

 僕は、一見だらしなさそうで、不道徳的で、反抗的で、反・非社会的で、何処かにルサンチマンを抱えているような雰囲気を漂わせ、独特のファッションを着こなし、(どちらかといえば、目立ちがちであるが下品では無く、多分彼、彼女でしか着こせないような傾奇者(カブキモノ)に通じるようないでたち、)そして、世間が眉をひそめるような生業、日蔭の稼業をしながらも、堂々と頭を上げて生きているような人が男性、女性問わず本質的に好きだ。
 ただし、自我、アイデンディティが強く確立していなければ、そうはなれないだろうし、多少の文章を書く位の教養は持ち合わせていないと自己表現も出来ないだろう。

 北原みのりも多分そんな人の一人であろう。職業はセックスグッズショップオーナー。その店名がまた人を食っているようでいい、「ラブピースクラブ」とは何とも普遍愛に通じ優しくはないか。そんな彼女は「週刊朝日」にコラム『ニッポンスッポンポン』を連載している。その中で、最近珠玉のエッセイを書いた。(2015.7.25.)無断転載は著作権に触れるだろうが、僕のブログは読者も少ないし、第一、週刊朝日の宣伝にもなるから大目に見て頂きたい。(図1)

図1.週刊朝日2015.7.25より転載

図1.週刊朝日2015.7.25より転載

これは盗用、転用ではない、紹介である。

 他には元クラブホステスで作家の室井祐月とか政治評論家の金慶珠(東海大准教授)とかがいる。同じく経済学者の濱ノリ子(同志社大教授)も感覚的にはかなり近い。
 もっとも彼女達の生業は、立派過ぎるものではありますが。

 室井祐月も同じく週刊朝日にコラム『しがみつく女』を連載しているが、これもかなり面白い。教養が学歴と一致しない見本のような女性で、直観的感性は並外れて鋭い。TBSのテレビ番組の「ヒルオビ」の常連コメンテーターだが、見ていると何でも感覚的に判断するが、他のゲストの論理的、分析的な判断を凌駕することは少なくない。

 金慶珠は、派手な出で立ちに似ず、緻密な論理展開の舌鋒がセクシー。失礼ながら、あまりガチガチの倫理的な思考の持ち主には見受けられないから、一緒に飲めば楽しそう。彼女にコテンパンにやられても、自民党の高市早苗や野田聖子ならムカつくが、彼女ら許せてしまうというタイプの女性なのかもしれない。ついでに甘えさせてくれるタイプなら、、、さらにいいね。

 濱ノリ子も基本的には金慶珠と同じカテゴリーだろうが、色気に乏し過ぎるのが難点で致命的、残念。

 番外の評論家の故大宅壮一の娘の大宅映子はアクセサリーこそ派手だが、思考は保守で、親の七光り組だから基本的に立ち位置が違うし、個人的には、あの大きな顔と人を食ったような物言いが好みではないからアウト。

 芸能人にもこの手はいそうだが、文章を自分で書いているかどうか怪しいから、評価のしようがない。
 ただ、知花クララが、終戦記念日に沖縄について語った週刊朝日の寄稿文は良かった。もっとも、小生は長年の彼女のディープなファンであるからバイアスが入っている疑いはひときわ濃い。

 アスリートやプロゴルファーにも可能性のありそうなパーソナリティを見かけるが、ここで書けるような情報源が無いから語れない。

 猛暑が終わり、あの暑さがウソのように一気に秋めいてきて、小生の気分もうつ傾向にあってか、このような煌めくような才女達の文章に触れると、たちまちコンプレックスに襲われ、何もしたくなくなる。
 だから、何も書けないから、彼女たちを出汁にしたという訳なのである。

 日頃の小生のモット―「目指せ老賢人」は,わけもなく、露と泡と消え失せるのである。

 才能の片鱗も持たない老人は、早く冬が来て、うつが治まる日をひたすら待つしかないのだろうね。

 

空耳妄言⑦―空耳のように、聞き流していいが、誰かが囁いた方がいいような話もある。

車山、蝶々深山8月

車山、蝶々深山8月

*安倍政権のダメージコントロール第二の矢―沖縄との一時休戦
 今になって、新国立競技場問題が安保法案強行採決の矛先をごまかす政治利用と野党が言うようになった。その政治的センスだから、第二の矢が放たれたとは誰も言わないが、政府が辺野古湾埋め立て工事を一ヵ月間中止して、沖縄米軍基地辺野古移転問題を翁長沖縄知事と議論を深めたいと提案した。残念なことに翁長知事が、振興予算3000億円獲得に気がそがれたのか、それに乗ってしまったのである。

 これこそ安保法制反対の世論を押さえ、法案を通しやすくする第二のダメージコントロールそのものなのだ。あるいは辺野古移設の予備的なダメージコントロールを兼ねている。

 翁長沖縄知事は、「辺野古移設を決めた前知事の判断に瑕疵があった」という第三者委員会の意見書を盾に、埋め立て作業の認可取り消しを切り札にちらつかせていたのを、一か月間凍結すると応じてしまったのである。
 翁長知事は、基地問題は、思想の左右を超えた沖縄県民全体の問題であるとし、オール沖縄の闘争形態を作りあげた力量の持ち主であるから、今こそ埋め立て工事の認可を取下げて政府と真正面から対立することによって、沖縄の基地問題は安保法制の集団的自衛権に直接関連する日本全体の安全保障の問題そのものであるということを本土の日本国民に突き付け、同じ土俵に乗せて、オール日本の闘争形態にしてこそ活路が開けると思わなかったのであろうか。

 オール沖縄の闘争原理をオール日本に誘導してこそ勝利の展望が開けると私は思うし、日本の安全保障問題が国民的関心事にある今こそ、その絶好の機会であるにも関わらず、翁長知事は自ら道を閉してしまった。
 おそらくではあるが、翁長知事を始め沖縄県民は自分たちがオール沖縄でまとまったようには、本土日本人がオール日本で沖縄と協調するとは思えなかったからではないか、と思う。
 それは琉球王国から日本に併合されて以来の彼我の歴史から学べば当然の感覚と言えるものだろう。

 ハイテク化した現代の軍備では、沖縄にどれだけ戦略的軍事価値があるかは米国国防省自体が疑問視している位だから、沖縄米軍基地の南洋諸島米国領への国外移転も夢のような話でもあるまい。
 米国が本当に欲しているのは、基地を置く場所ではなく米国の極東軍事予算の肩代わりなのだ。基地をオキナワにおけば、日本が思いやり予算で米軍基地の費用を肩代わりしてくれるからこそ、沖縄は重要な意味を持つのではないかと憶測する。
 なぜ日本政府はこれ等のバランス感覚を持たず、辺野古移転に固執するのか、あるいはダイレクトに基地の返還交渉をしないのか私には不思議でならないし、何処かに深謀遠慮があるのかもしれないが、私にはそこらへんは読めない。

 休戦一ヵ月がたてば、政府は沖縄の民意は十分聞いたとして九牛の一毛も譲歩することなく、既定路線で強硬に押し通して来るであろう。
 なぜならば、安保法制さえ通してしまえば、政府は国民世論など気にする必要が無くなるし、ましてや沖縄の世論など顧みるはずもないからだ。

 有史以来今日まで、歴代の日本の政治権力は沖縄に対して差別的で冷淡である。(少しは天皇の所作を見習うべきと思う。)沖縄は、日本政府や沖縄にヘイトスピーチを浴びせるような低劣な本土の日本人に、もっと怒りをぶつけて当然だと思う。(ぶつけて戦うべきだと思う。)

 沖縄が、第二の成田にならないことを痛切に願う。そうなっては沖縄が余りに悲し過ぎる。

霧ヶ峰8月

霧ヶ峰8月

*舛添都知事のスタンドプレー―言えた義理か?文科省非難
 新国立競技場問題で、舛添都知事の発言のトーンが高い。文科省の所轄担当局長を首にするか下村文科相大臣が辞任するか、いずれかにしないと示しがつかない、ガバナンスが維持できないというのだ。その言自体はもっともなことで異論はないが、舛添さん、あなたに言われたくはないよ、と言いたいのは私だけではあるまい。

 (結局、局長が更迭され、下村大臣は生き残った。)
 厚労省の年金不明問題で、民主党政権下で厚労大臣に抜擢された舛添氏は「一円たりとも、一人たりとも不正は許さない、必ず明らかにして責任をとらす。」と大見得を切ったのに、年金は大量の未解決金が残ったまま、結局一人たりとも役人に責任をとらせずに尻切れトンボに終わってしまった事を私達は未だ忘れていない。
 新国立競技場の都の整備費負担では力んで見せたが、今回の豹変ぶりを見ると、元々裏では手を握っていた可能性が高い。
 彼は、官位名誉を求め、自分の政治信条を変節するのに逡巡の無い人で(自民党から民主党に移って厚労大臣になり、民主から自民に戻って都知事になった。)、スタンドプレーを好む底の浅い人物であるということを良く覚えておこう。

白樺林に朝の光が刺す

白樺林に朝の光が刺す

*五輪エンブレム問題―五輪組織委員会のリスク管理の甘さ
 東京オリンピックのロゴマーク、エンブレムがベルギーの美術館のエンブレムに酷似しているとして、当のベルギーのデザイナーが、東京オリンピックのエンブレムは日本人デザイナーの盗作によるものとして使用差し止めをIOCに申し入れをした。聞き入れなければ訴訟をするという。

 デザインというものは、とかくよく似たものが出るものであるから(過去にもJRや東電のロゴでも同じような事が起きた。)、日本の五輪組織委員会は、このような事態を当然想定しておくべきであったと思う。
 例えば、採用を決定する際に、デザイナーには「今後類似したデザインの存在が明らかになった場合は、無条件で白紙に戻す」と言うような条件を付けておけば良いのである。そうすれば、盗作であろうがなかろうが、撤回し再度選び直せば良いだけである。
 デザインというものは、これでなければならないという本質は無いのであるから、変更するのに目くじらを立てる必要もないのだ。

 さて、これはさておき、オリンピック組織委員会が、マタゾロへまをしでかすのではと心配(期待?)するのは私だけではないだろう。
 なぜなら組織委員長は誰あろう、森喜朗元首相で下村文科相も重要メンバーに残っているのだから。

白樺林の木漏れ日

白樺林の木漏れ日

 *酒鬼薔薇聖斗、少年Aの著書[絶歌」を演出した狡猾編集者―幻冬社見城徹社長の正体
 少年Aが小学生の首を切断して学校の校門の上に曝したショッキングな事件は、多くの人々の記憶に残っていることと思う。その異常な犯人に事件の暴露本を書くように薦めた幻冬舎社長の見城徹氏は、不思議なことに自社で発行せずに、太田出版に版元を譲った。

 「売れる本が良い本である」と言うことが社是でもあるかのように、際物も含めベストセラー作りに秀でた見城氏にしてはおかしな行動ではないかと思ったが、案に相して、このような著書を被害者の家族の同意も得ずに出版した、あるいは少年Aの事件後のインモラルな言動から、出版に対する社会的、倫理的責任が問題になり、太田出版に対する非難轟轟の声に続き、取り扱いを断る書店も現れてきた。
 幻冬舎は、このような事態を予測して、非難の矢面に立つのを避けたのであろうが、では、彼がどのように利益の分け前にあずかったかは興味のあるところである。彼を少しでも知っていれば、儲け話に、ただ指をくわえてみている男とは到底思えないからである。良識人ぶって体面を保ちつつ、利得だけは取るというのが、昨今の出版人の本性なのであろうか。
 現在の出版界は、今や編集者が作家を育てて稼ぐというような時代は終わって、収益の大半は、自費出版と言う罠で、出版社自身は全く売る気のない本をライターを使って書かせて、出来た本の一定部数を著者に買い取らせて上前を稼ぐと言う、半ばダマシ商法で生き残るような時代である。
 出版社には、もはや言論を扱う矜持も何もないのである。

 ちなみに小生は「絶歌」は読んでいない。本の著者、少年Aや編集者の意図を思うと、とても読む気が起こらないからである。

松虫草

松虫草

ギリシャ問題はEU(欧州連合)理念のデザインの失敗である―ソヴィエト連邦にも似て早晩破綻するだろう
 少し古い話になるが、ギリシャ財政破たん問題では、金を借りた方が、倹約もしないでいて、借金を棒引きにしろだの、金をさらに貸せと言い張っているようで、日本ではギリシャを悪者にする世論が一部で醸成されたよう思う。

 EUが成立した一番の要因は、アメリカや中国、日本を中心としたアジア経済圏に対抗して行くにはドイツやフランスが一国単位では、もはや対抗できない状況になって、大きな市場圏を作る必要があったからである。そこでヨーロッパの主要国が連合して一つの市場になり、ユーロを共通通貨にして連合国間の為替制度も廃止してしまった。これがドイツを一強とする格差を拡大させたのである。先進工業国のドイツが輸出を伸ばしマルクが強くなってもユーロで決済すれば、為替で調整されることは無いのだから、ドイツは太る一方で、貧国は益々貧しくなる構造になっているのである。
 日本が経済成長を始めた時に円は1ドル360円に固定されていたが、それでは日本が余りに有利であると変動制に移行させられ、現在の120円前後になったが、ドイツは360円のままで貿易をやっているようなものだからだ。
 ギリシャ経済の窮乏は、いわばEUの仕組みの犠牲であるとして、補償を求めるギリシャの言い分は確かにあるようだ。だからこそEUはギリシャを見捨てることが出来なかったのだ。
 ドイツはいくらか負担してでも、EUを堅持するメリットの方が大きいのだ。

 これは、本質的にEUの仕組みのデザインの失敗であろうから、社会主義が破綻したソヴィエト連邦のように、早晩EUも崩壊すると私は予想する。

 

安保法制をめぐる卓越した論評―米人タレント、パックンと「GQ」の鈴木編集長の卓見

国会も、安保法制が衆議院を強行採決で通過し、今は参議院で審議が行われているが、野党の質問も、正鵠を得た鋭さに欠けるが、答える政府も、はぐらかしばかりでこの法案が描く日本の未来像が今一つ明確になってこない。
そんな折、政治評論を生業としない二人の人物が、安保法制の本質を突く論評をしており、目についたのでご紹介する。

 テレビで時々コメンテーターのような役割で見かける、鼻が大きくて、良く通る声をしたアメリカ人のパックンというタレントがいるが、ご存知だろうか?
ハーバードを卒業したインテリ芸人らしいのだが、最近ネットで彼の書くブログ「パックンのちょっとまじめな話―7月31日」を読んで、共感するところが多かったので、紹介しようと思う。(但し、彼は思うだけで、決して話はしていないことになっている。)

 日本の安保法制をめぐる安倍政権のやり方に対する懸念である。
 まず、当然の話として、敵の少ない日本が敵の多いアメリカと集団的自衛権で一体化すれば、日本は敵を増やすことになり国家のリスクが高まるのは当たり前のことではないかと言い、安倍首相が言う「危険が増えることは無い」という強弁を揶揄する。
 しかし、安倍政権がやった強行採決は、アメリカ人から見れば、多数決を決議法とする民主主義下では当然のことと捉えるだろうと弁護する。但し、それは民主主義下で政府の権力乱用を防ぐ二つの「抑止力」が機能しているという前提があってのことであると条件を付ける。
 それは「憲法」と「民意」である。
彼は言う。現在の安保法制は、安倍政権も本来憲法改正が必要であることは内心は認識しており、そのために、まず憲法改正の手続きを決めている96条を改正して、9条改正をしやすくしようとしたが、世論の反対にあって頓挫した。それならばということで、憲法改正の手間暇をかけずに憲法の示す自衛権の解釈を変えて無理やり合憲にしたて上げて(その際に知恵をつけたのが、今問題になっている「法的安定性などどうでもよい。」と発言をした磯崎総理補佐官である。)、衆議院を通した。

 いつの時代も、このような権力にすり寄る腰ぎんちゃくはいるものだ。

法案が違憲であるなら、これらの法案は破棄されることになり、これが立憲国家としての憲法の抑止力である。しかし日本では、世界の多くの国がそうであるような、法案が純粋に合憲か違憲かを問う抽象的違憲審査制をしいていないので、特定の事案が無い限りは違憲かどうか審査できないというのだ。例えば、実際に海外派兵などで自衛隊員が死亡し、その遺族が派兵の根拠となった集団的自衛権が違法であるとして裁判でも起こさないと、日本の司法は安保法制が合憲か違憲かの判断を下すことが出来ないのである。
 しかも日本の司法では防衛関係の裁判は「高度な政治的判断である」として憲法判断を避けてきた歴史があるので、憲法という抑止力はわが国では機能していないことになる。

 もう一つの抑止力である民意はどうか?世論調査で国民の過半数の反対があってもことごとく政府によって無視され法案は通ってしまう。例えば、特定保護秘密法、原発再稼働、労働者派遣法、米軍基地普天間移転などなど。
 なぜこんな暴挙が可能かといえば、立法権が衆議院に集中している上(参議院の60日ルールなどで)、現行選挙法では、総選挙で全員同時に改選になるから、選挙時の一時的なファクターで一つの政党が圧倒的な議席数を獲得することが出来るからだという。
 (前回の総選挙では、アベノミクスで株が上がっているという一事で、自民党は衆議院の67%を取ってしまった。その前の小泉政権時は、郵政民営化一本で圧勝した。)

 数をとりさえすれば、現在のように野党の勢力が足りず、与党内にも抑制力となる対抗派閥が無くなると事実上の専制独裁政治が台頭するわけである。

 従って、日本では政府権力の二つの抑止力は機能していないのであるから、多数決とはいえ強行採決には問題があると彼は指摘しているのだ。 

 私は、安倍政権の独裁を可能にしているもう一つの理由として、「少数派をいかに納得させることが出来るか」という「民主主義の質」の担保に大手マスコミが無為、無力、無能であることを追加しておきたい。(むしろ安倍政権に加担するマスコミも少なくない。権力に加担するマスコミなど、本質的に汚物以下である。)
 ましてや、現在の政府の施政に反対する声は少数派ではないのだから、なお、その責任は重いと言える。

 もう一人、際立ってすぐれた論評をした娯楽雑誌編集者がいる。
 男性雑誌「GQ」の鈴木正文編集長である。
 彼のことは以前にも書いたが(グルマンライフ2012.8.1)、「CAR NAVI」,「ENGINE」といくつもの雑誌を渡り歩き、メジャー誌にしてきた実績があるが、それでも彼が一貫して守ってきたことは、“Editor’s Letter“という欄を必ず設けて  、雑誌のコンセプトとは直接関係のない社会批評をしてきたことだ。その眼力も舌鋒も鋭い。
 GQ9月号では[憲法9条とアイドル]というタイトルで、集団的自衛権はどう転んでも憲法9条には相いれず、違憲であることを論理立てて立証している。そして安倍政権は詭弁を弄して日本の立憲国家たることを破壊していると告発している。
 また芸人やアイドルが、安倍政府を揶揄した批判的な発言をすると、それに対してネット上で罵詈雑言が炎上することの危さを危惧している。
 (あの醜悪なヘイトスピーチを野放しにした権力の意図がここでも働いているのかもしれないと私は秘かに思ってしまうのだ。)

 そして彼は最後に、『小なりといえどもメディア業界の一画をしめる人間として、権力になびかざる者を背後から撃つものを非難する。そして、権力の座にある人間に、真っ当な遵法精神を求める。』と締めくくっている。

 二人のいずれの論評も、そこいらの愚鈍な政治評論家に比べれば、理路整然と論理が立ち、文章も巧みで一読の価値は十分にあると思うので、是非原文をお読みになることをお薦めします。

 

新国立競技場ドタバタ劇で明らかになったこと

 本来なら、このような記事は“空耳妄言のコラム”として書くところであるが、一つの記事にしたのはそれなりの理由がある。
 これは妄言として聞き流してほしくはないからである。
 その理由は我々は、政府の意図には敏感に反応し、これからの安倍内閣の行動を注意深く見て行かなければならないと思うからである。

あまりに見え透いた安倍内閣のダメージコントロール

 ダメージコントロール(damage control)とは、物理的な攻撃・衝撃を受けた際に、そのダメージや被害を必要最小限に留める事後処置を指す。通称「ダメコン」などと呼ばれる。自動車分野、医療分野、格闘技などのスポーツ、軍事分野などで使われるが、政治の世界でも使われる。
 一つの政策やスキャンダルなどで内閣の支持率が低下した時(ダメージ)に、国民の目をそらすような手を打ったり、国民に受けの良い政策を打ちだし、支持率の低下を防ぐようコントロールすることを言う。

 今回、安保法案強行採決で、大きく支持率が低下した中で、その歯止めとして、世論で批判の強かった新国立競技場案の白紙撤回という国民受けのする手を打ったのである。もしこのままこれも強行すれば、内閣が失速しかねないという政治的判断に依るものであるという。

 文科相もJSC(日本スポーツ振興センター)も、現案を変更することは国際公約上できない、たとえ変更するにしても時間が足りない、費用は 2500億で妥当であるとして、最終的には政府決定したにも関わらず、首相のツルの一声で覆った。これはダメージコントロールの政治判断以外の何物でもない事を示している。

 しかし、強気の安倍首相のことだから、今回の安保法案強行採決だけのダメージコントロールが目的であったとは僕には到底思えないのである。
 なぜなら、第一に彼はポピュリズムと言われるのをもっとも嫌がるからである。彼が尊敬心酔する祖父岸信介元首相は「国民とは愚かなものであるから、今は反対しても2,30年もたてば正しかったことがわかる」と言い、彼もそれを信じているようであるし、それに岸内閣の60年安保に比べれば、今回の安保法案反対運動は桁違いに小さいものであった。
 そして何より安倍首相は「Grace under pressure」(プレッシャーの中で優雅に振る舞う)というJ・F・Kennedyの言葉を座右の銘にしているというから、反対されればされるほど、自虐的、自己愛的に耐える力があると思うからだ。

 つまり今回のダメージコントロールは、安保法制の他に別の狙いがあると思うべきなのだ。次なる企み、覚悟があって、そのために今回は一つ譲ってみせておこうという訳なのだ。

 それは何か?
 ズバリ沖縄だろう。これは辺野古基地移転への不退転の決意の意思表示と見るべきだろうと思う。

 つまり、沖縄は手ごわいと感じ取っていて、第二の成田になるのさえ覚悟しているのではないか思う。沖縄県民はオール沖縄で一枚岩になりつつあり、オール沖縄の行動原理がオール日本の思想行動原理に伝播するのを恐れて、そうならないよう分断作戦の一つとしてダメージコントロールをしておこうと考えたのではないか、それが今回の白紙撤回の真相ではないかと私は思う。

 彼が何故そこまで安保法制,辺野古基地移転にこだわるか?は、前にも言ったが彼特有の劣等感と、エリート意識がないまぜになって、歴史に名を残したいと言う単純な功名心に駆られているのではないかと思う。
 彼に深い教養に基づく哲学、歴史観とか、国を思うような高邁な憂国の志があるようには到底感じ取ることは出来ないからだ。
 ほぼ同じような意見を、先日の日本テレビの「深層ニュース」に出演した田中真紀子氏も話していた。

 最後に確認しておきたいが、民主主義は多数決が原則だからと言って、多数政党が何をしても良いことにはならない。
 ましてや、自民党は圧倒的多数の議席を持ってはいるが、自民党の得票数は全投票数の3割に過ぎず半数にも達していないのだ。
 反対する少数派をどれだけ納得させることが出来るかが、民主主義政治の質であることを忘れてはならない。

 *政府見解の正当性はどうにでも変えられるということ

 つい先日まで政府の見解は、1)現案の新国立競技場のデザインは、IOCでの選考理由の一つであり、国際的な公約のようなものだから変えられない。2)設計のやり直しをするには時間が足りない、間に合わない。3〉再検証しても建築費2500億は妥当である、とする文科省とJSC(日本スポーツ振興センター)の説明を支持するものであった。
 ところが安保法案強行採決後の政府の政治的判断で、それらの説明は一転反故になった。つまり今までの理由はすべて虚偽であったと認めたのだ。

 まず政府は、今までの見解の欺瞞性を国民に説明すべきではないか。

 つまり内閣政府と言う政治権力は、政策の正当化の為なら、どんな嘘でも平気でつくということなのだ。
 これは安保法制や沖縄辺野古基地移転でも決して例外ではないだろう。

 *諸悪の根源は森喜朗元首相

 日本ラグビー協会はW杯開催に当たり、森喜朗元首相主導の元で新国立競技場を初使いし国民の関心を少しでも集めようとした。つまりはオリンピックにタダ乗りしようとしたのだ。森氏がオリンピック組織委員長になったのをモッケの幸いに漁夫の利を得たとほくそ笑んだに違いない。一方、森元首相もこれをキッカケに日本、国際ラグビー界での立場を不動のものにできるとほくそ笑んだのだろう。

 しかし、新国立競技場建設費の不明朗な急騰で世論の猛反発を受け、世論調査(週刊文春7.16号)でも建設をめぐる迷走の一番の原因は森元首相のラグビーW杯使用への固執であると言われるようになり、又アスリートを始めとするスポーツ界からも「国立競技場建設期限はラグビーW杯開催にこだわるべきではない」という意見が噴出し出すと、状況不利と判断、手のひらを返すかのように「自分は元もと新国立競技場での開催にこだわってはいない、第一あの生ガキのようなデザインは好きではない。」などと臆面もなく発言し態度を翻した。
 それに安倍首相の直接交渉に応じれば、政府に貸が作れる、W杯に多額の資金援助も取れると計算したのだろうか、安倍首相の説得にすぐに応じたようである。

 森元首相に知性にまつわる話は似つかわしくないだろうが、知っておいた方が良い話もある。
 人間にはライフサイクルでいわれる年齢に相応しい生き方の指標がある。
 論語あるいはユダヤ教のタルムードの箴言の中にある「人間の年表」などが知られている。
 論語では「70にして心の欲するところにしたがいて矩を超えず」、つまり70にもなれば、心は自由自在にあっても節度を失うような振る舞いはしなくなるものだ、と言い、タルムードでは「60歳で長老(英知)、70歳は白髪」といい、6、70歳になれば、人は死にゆく準備として、人としての英知を極めるように生きるものだ、と言っている。
 精神科医エリクソンは、ある物事を主体的に成し遂げてきた人物は、ライフサイクルの最後の段階では、人生は着底するものであることを受け入れ、自我の統合性をめざすものだという。

 社会は生命の連続性で成り立っており、新しい命の新規参入と老いた命の退場は同等の重要性を持つのが社会的組織の論理である。新しい生命が登場し参加してくるには老いた古いものはその場から退場しなければならない。退場したくないなら、かつての場に固執せず、新しい別の境地を開いて転出すべきであろうと思う。

 森元首相も、何かのはずみで総理大臣になってしまったので、人生の統合性が得られず、勘違いの思考経路がそのまま残ってしまっているのかもしれないが、これは国民にとっては二重、三重の災難であった。

 (私の近辺にも、何代も前の教授が現役の教授の教室運営に今だに口出しをするような姿を垣間見るが、傍からは老害の醜悪さでしかないように見える。自分の教授時代から今に至って、自我の統合性が得られていないのなら、自ら新天地を開いて自己実現を目指して余生を全うすべきであると思うが、その手の人達には、それだけの思慮も能力も無いのであろう。)

 その後、森元首相は「日本国家なら2500億くらいどうにでもなるだろう。」、と未練たっぷりの発言をした。自分が国民に与えてきた迷惑や国家的損失には一顧だにできない資質。オリンピック組織委員長としての責任なんて言葉は脳細胞の一個分も無い無神経さ。
 ここまで愚昧な人物が、一時でも我々の国家のリーダーであったことは怖ろしいことであり、誠に恥ずかしいことでもある。

 *安藤忠雄氏の素顔

 今回の、建築家ザハ・ハディド女史のデザインを決定した建築家、東大名誉教授の安藤忠雄氏は、多くの批判が湧き上がる中で開催された最終決定をする有識者会議を欠席し、非難を浴びると記者会見をし、「自分はデザインを決めた責任はあるが、建設設計や建設費用決定には一切関わっていない。なぜそこまで跳ね上がったのか自分も聞きたいくらいだ。」と開き直った。
 建築家というものは施主の予算,工期を一切考慮しないでデザインを決めるとでも言うのだろうか。
 あらかたの見積もりも工期も当然見立てて契約するに決まった話ではないかと思うのが常識的ではないか。

 もっとも安藤氏の設計デザインは、「造りにくい」、「使いにくい」、「住みにくい」と3本調子が揃っていることでは、つとに有名である。
 あくまでもデザイン重視で、あとは好きに作ってくれという建築屋泣かせらしい。
だから自分の経験からザハ・ハディッドがunbuildの女王と言われていても、日本のゼネコンなら何とかうまく作ってくれるだろうと甘く考えたのではないかと思う。
 彼の、高卒でプロボクサーを経て、世界を放浪しながら独学で建築を勉強し、「住吉の長屋」で建築学会賞をとるや、破竹の勢いで世界的な建築家に成長し、最後は東大教授にまでなったという有名すぎる履歴は、学問的基礎が足りず、基礎計算には弱いという言い訳にでもしようというのだろうか。

 しかし、彼はこの騒動では、一つの大きな社会貢献をした。
「どうしてここまで跳ね上がったのか僕も分からない。僕も聞きたいくらいだ。」
「ゼネコンも利益を度外視して、お国の為に一肌脱げば納まるのではないか」
と発言し、900億円もの積み増し金が建築費用以外のものであることを暗に言ったのである。

 つまり、公共事業の実態を暴露したのである。

 大きな公共事業の建築物を多数手がけてきた彼の発言の意味の信憑性は高いと言えるだろう。

 *白紙撤回は隠ぺい工作

 では、何故今回は見直しでは無く、ゼロベースの白紙撤回になったのか?
本当は原案修正で建築費用を元の予算まで下げれば無駄も少なく、工期も無駄に伸びず一番良かったのではないか。
 しかし、そうすると,どこに無駄な費用が積み上がったのかを明らかにしなければならず、そうなるとどこかに具合の悪い人たちがいたのではないかと勘繰りたくもなる。
 2500億に膨らんだ原因を究明できない理由が何処かにあったに違いない。

 大事なことは、公共事業というものはすべてそういうものだということを我々は知り、忘れずに弾劾しなければならないということだ。
 民主党時代に中止になり、自民党復活で蘇った、八ッ場ダムは予算2000億から始まって、やがて4000億になり、今や9000億に膨れ上がっているそうである。(TBSテレビ「ひるおび」から)

 それにしても、新たにデザインコンペからし直す必要があるだろうか?今回のコンペの次点。次次点とか、計画見直し派(槇文彦代表)が出した案などから選べばよいではないか。そうすれば数か月の短縮になり、我々も工期をやきもきしなくて済むというものだ。

 *マスコミは又しても国民の為には機能しなかった。

 新国立競技場の建設をめぐる、この間の国を挙げての迷走に対してマスコミは、その役割をきちんと果たして来たか?国民の為に政府の動きを監視し正確に報道して来たか?
 まず、政府の見解に虚偽が無いか全力を挙げて検証して来たか?
 権力の虚偽を暴くのがマスコミの第一の使命であるはずなのに、政府の言うがままを容認し、反証もしないうちに、結局政府が自ら虚偽を白状する形になったが、IOC,JOCもデザインの国際公約なんか存在しないと言っていることを早く報道し、見直しの機運を高めても良かったのではないか。

 森元首相の暗躍が見直しの障害になっていることを、マスコミ自身の取材で真実を明らかにし、広く国民に知らせても良かったのではないか。

 建築予算急騰の実態を究明しようとするような報道姿勢があっても良かったのではないか。結果をただ垂れ流すだけで、からくりの真相を究明する姿勢が見えない今のマスコミはやはり無用の長物だ。
(今からでも遅くはないから、マスコミに良心があるなら真相を明らかにすべきだ。)

 安藤忠雄氏の沈黙を通した道義的責任はウヤムヤニせず、ハッキリさせても良かったのではないか。

 要するに、今回の新国立競技場建設をめぐる騒動で明らかになったことは、政府と言う権力は、自分の都合の良い方に世論操作をするものであるということ、そのためには平気で嘘でもつくし、隠ぺいもするということ、公共事業というものは有象無象の手で100億単位の公金が、いいようにかすめ盗られて行く、ということである。

 

空耳妄言⑥空耳のように、聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

安倍内閣、文部科学省の愚民化政策(週刊文春2015.6.25号P136,適菜収のコラム「今週のバカ」を引用、AERA2015.6.29号EYES内田樹を参照して。)

 文科省が、全国86の国立大学に対して、人文科学系の学部は成果が見えにくいから、学部を統廃合して、社会的な要請の高い分野への転換をするように、という通達を出した(6月8日)。安倍首相は、OECD閣僚理事会基調演説で、「だからこそ、私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズも見据えた、もっと実践的な職業教育を行う」と述べている。その後実際に、IT関連に特化した大学教育機関を作ると発表した。文科省の下村大臣は忠実に安倍首相の意向に沿ったのだろう。

 要は、政府は財界にとって便利な即戦力となる人材を大学を使って量産し「成長戦略に」につなげようというお話。

 教養とか文化、文理の基礎研究の大切さを理解できない、おバカさんによる内閣行政府の異常な教育介入ですね。

 それでなくとも、現在の大学教育カリキュラムでは文理の教養教育が軽視されている。(小生の母校医学部では教養過程は2年間から1年間に短縮されて久しい。)

 欧米の大学ではリべラルアーツ(教養学)が非常に重きを成しているのは、政治、経済界においても、教養のあるなしがリーダーの判断に大きくかかわり、また人間関係を形成する上でも重要と思われているからだとされている。

 これは、逆に言えば、我が国は、算盤学だけが重んじられ、教養は不要であるとする社会であることを示していることなのかもしれない。多分それは、戦後の日本の特異現象であり、ことに小泉政権から安倍政権に至る新自由主義路線において特に顕著になっているのではないかと思う。
 要は教養を重んじない政治、経済の指導者が(漫画しか読まない議員が首相になったり、ポツダム宣言を読んでいないと、日本の首相(現)が平然と答弁出来たりするような政界事情)、教養を必要としない社会を作ろうとしているのである。

 これは、彼等の持論であるグローバル化に逆行しているのではないかと思うが、どうだろう。

 これ等の事情は、私の知る医学会においても全く同様である。医学、それもごく狭い自分の専門領域以外の話題性となると、ゴルフかワイン、利殖話位しか話題も無く、学会の政治(学会の会長、理事長人事などを決めること)はゴルフ場で決まると言われながらも、次世代層はそれに異をとなえるでもなく、ゴルフ離れが進むこのご時世にあっても、いそいそとゴルフの練習に励む体たらくでは、到底人を笑えた義理でもないだろう。

 旧帝大をはじめとする国立大学は、本来エリートの養成機関であり、人材派遣ビジネスではない。成果が出ないという理由で切り捨てるのは、実業界の話であり、すぐに成果の出ない教養教育や基礎研究に長期的に金をかけることが出来るところに大学の存在意義はあるはずである。

 教育に市場原理を導入しようとするおバカな官僚や、財界に媚を売り「教養や学術研究を深める」ことを否定するおバカな政治家が我が国の教育を破壊しようとしているのだ。

 おバカとは無知のことではない。価値判断が出来ないということだ。
 教養とは、正しい大局的判断には必須のものであることが理解できていないのだ。

 民主党政権の時には、スーパーコンピュータの開発予算を巡り、「1番でなくとも、2番でいいではないか」と発言し、自然科学の世界の競争の意義についての無知ぶりをさらけ出した査定委員長を務めた女性議員がいたが、政治家とは皆この程度なのであろうか。
 小学校の運動会でもあるまいし。

 ごく最近では、自民党の青年局の懇話会(安保法制を支持する会)で、自分たちに批判的な新聞社は、広告を制限させて制裁するだの潰してしまえだのと言って盛り上がった議員達にその例を見ることが出来る。また、売れっ子作家にも、らしからぬ常識、教養の無いお調子者がいることが分かった。

 今この国に必要なのは、価値判断のできるエリートの養成である。現状の、東大を頂点とするエリート国立大学がそうなっていないというなら、そうなるように重点投資するだけの話だ。 
 国立大学の運営予算は独立法人化された後、10年で1300億円も削減されているそうである。安倍内閣の言う教育改革とは、予算を削り、大学を専門学校化し、国語より英語を重んじ、国歌、国旗掲揚を強要し、言うことを聞かなければ、補助金を削減して制裁を加え、中高の歴史教科書には権力的に介入するということなのか

 権力を握ったおバカが制度をいじるからおバカが量産されるようになるのだ(と適菜収はいう)。

 実は、従順なおバカ育成こそが、おバカな振り?をした政府の真の狙いなのかも知れないと、小生は秘かに思うのである。

*スポーツ界はどこも金まみれ
 国際サッカ―連盟FIFAの理事たち(おそらく理事長を含む大多数)がワールドカップ大会の開催国決定をめぐって数十億という多額の賄賂を受け取っていた問題が米国で明らかにされ、訴追され、国際的に手配された。

ごく最近になって、日本のサッカー協会も2002年の韓国との共催の際に賄賂として1~2億円程払ったというニュースがスペインで報道され、真偽が問題になっている。状況的には黒と思っている人が多いのではないか。

 スポーツは健全であるべきとする神話が、未だ残っているかどうかは知らないが、わが国ではプロ野球、プロサッカーは言うに及ばず、高校野球から国技である相撲に至るまで、あらゆるスポーツにおいて、プロ、アマを問わず、選手のスカウトから八百長試合まで、すべて金まみれであることは周知の事実である。

 もういい加減にスポーツに健全性やら教育性やら、スポ根と成功物語を美学として持ち込むのは止めたらどうか。
 スポーツは一般芸能と何ら変わるところなく、単なる興行ビジネスなのだ。
 そしてビジネスとしてのガバナンスを社会が監視するくらいが適当であろうと思うのである。

 オリンピックやワールドカップは興業ビジネスとしてあまりに旨味が大きく、利益が多すぎるのが根本的な問題なのだ。
 IOCやFIFAに、世界中の参加国に競技を自腹で中継することを義務化し、開催国決定機関に放映権という莫大な利権を与えないようにする、大会自体に金をかけ過ぎないように規則で縛ることが、まず最初のステップでないかと思う。

 莫大な金が動けば、大きな利権が必ず発生し、石原都知事時代の2016年度オリンピックの立候補の際には数百億円の誘致費用使徒不明金が出たが、結局うやむやになってしまった。

 直近に公表された会計検査院の報告書によれば、昨年度の税金無駄使い改善分は、各種公益財団の予算を中心として約4100億という。これは前年度までは、無駄使いをしていたと公式に認めた額を意味する。(無駄使いの実態はおそらく、この数倍にはなるだろう。)

 税金、年金など公金は、使ったもの勝ち、ババしたもの勝ちというのが、昔からの日本の政治風土なのだろうか。

 

空耳妄言⑤ 空耳のように、聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

安保法制の違憲論議
 自民党推薦の憲法学者もが、集団的自衛権を違憲と国会で証言して、国会の安保法制法案審議も入り口の憲法論争となってちょっと安心した。当初の国会審議のように、いきなり具体論に入ってしまえば相手の思うつぼと思い、野党も阿保だなと思っていたからだ。

 野党と政府では、情報量が圧到的に違い、具体論では野党は不利にきまっているからだ。それにしても違憲論者の憲法学者を推薦した自民党の船田元という議員は、間抜けというしかない。彼は大物議員を父親に持ちながら、アナウンサーとの不倫結婚で栃木選挙区で落選を経験し、最近ようやく蘇ったかに見えたが、これでもう永久沈没であろう。
 以下は、日経新聞2015.4.23の「春秋」欄からの引用を元に少々私案を加筆したものである

 集団的自衛権の合法化の理由は、国際情勢の変化に対応して自衛権の範囲も変化してもよいとするものだが、そのアジア情勢危機を招いている中国を批判して、安倍首相はアジア・アフリカ首脳会議で格調高く述べている。
 「強いものが弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない。法の支配が、大小に関係なく国家の尊厳を守る。」と。
 全く同感である。後段の「大小に関係なく国家の」部分を「多数派、少数派に関係なく個人の」と置き換えれば、民主主義の原則そのものであるからである。
民主主義国家であるかの大きなポイントの一つが、時間を費やしても少数意見を尊重することだからである。
 その精神を安倍内閣は国会審議でも発揮してほしいものである。都合の悪い報道があれば、自民党がテレビ局幹部を呼びつける姿。あるいは、国会で安保法制を「戦争法案」と呼んだ野党議員に修正を求める姿。労働者派遣法改正法案では、強行採決を阻止しようとした野党に対して、委員長と首相が、頸椎捻挫2週間の診断書を掲げて謝罪を求める姿、米軍基地、辺野古移転反対の県民民意を代表する翁長知事に安倍首相は会おうともしない姿、等々「強いものが弱い者を力で振り回す」ことが常態化してはいないか。
 最近の海老坂武著「加藤周一」の中でも、加藤は民主主義の在り方について同様の見解を述べている

*消えた年金から漏れた年金への必然性
 年金機構がまた大へまをしでかした。100万人以上の年金情報(年金番号、氏名、住所等個人情報)が、ハッカーに盗み取られたのである。

 セキュリティ専門会社ラックによれば、何でも、中国、ロシヤ、北朝鮮、米国など(今回は状況証拠から中国と推測されるそうだが。)は熾烈なサイバー戦争を繰り広げ、国家が組織的に他国のあらゆる公的機関、企業を狙ってあらゆる情報を日常的に盗み取っているそうである。私達のメールさえも、すべて盗み取られ読まれていると考えた方がいいそうである。
 今回も、特に年金機構を狙い撃ちにした訳ではなく、年金機構が余りにセキュリチィが甘く、かつ職員の当事者意識が低いために、たまたま年金機構から情報が漏れたにすぎないのだという。(年金機構のトップから末端までの当事者意識の無い無責任体質が原因と指摘されている。)

 年金機構は、旧社会保険庁の頃には5,6千万人分の年金が不明になるという年金管理の余りのずさんさと、また一人の職員による数十億に及ぶ年金横領着服事件が発覚し、数兆円の不明金には他の職員の横領分も相当額にのぼるとされながらも、結局はうやむやにされてしまい、誰一人として責任をとらず、組織の看板だけを年金機構と変えて職員は上から下まで横滑りで生き残ったものである。

この時、「不明金の最後の一円まで、最後の一人まで、不正は許さない、必ずすべてを明からかにして、けじめはつける」と言って大見得を切ったのが、当時の厚労大臣、現舛添東京都知事であったことは覚えておこう。

 この年金不明事件だけでも、欧米諸国なら、相当数の関係者は逮捕され監獄行になったであろうし、共産主義国家なら公開処刑になったであろう。

 国民の生活に直結するような大問題であるにもかかわらず、現に今の年金の資金不足は、この不明金に端を発しているというのに、今や誰もそのことを言わないのである。我々は、誠におめでたい国民と言わざるを得ない。

 一方、国立大学病院の器材購入の口利きでは、担当者が数万から数十万の賄賂を受け取った嫌疑で、即逮捕されるという警察のちぐはぐさである。

公金不明に対して、この甘さでは、年金機構の職員の腐敗しきった無責任体質も変るはずもなかったであろうし、これからも同じような不祥事が起きて行くことだろう。

 旧社保庁、現年金機構の職員は未成年ではないのだから、更生する機会を与えるのではなく、職を解き、罰を与え厳しく責任を問うのが、このような度重なる不祥事の再発を防ぐ唯一の方法ではないかと思う。

 今までの、公金の不正に対して責任を厳格に問わない社会、政治体制では、年金機構の不祥事再発(再犯)は必須と小生は見ている。

 

空耳妄言④ ―空耳のように、聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

*政府主導の検証委員会の露骨なまやかし
 イスラム国による日本人殺害事件における日本政府の対応に問題は無かったか、を検証する委員会が報告書を提出した。

 「政府の対応に一切問題はなかった」、と言うものである。

 ちなみに委員会のメンバーは有識者が5人とされ、座長が宮永某という元外務官僚である。彼は後藤氏がISに拉致されテレビで報道されていた時、イスラム専門家(元ヨルダン大使館員)としてテレビ各局に出ずっぱりで解説していたから記憶されている人も多いと思うが、一貫して安倍政府の対応を支持し続け、「今は政府批判は止めて国民が一致団結するべきだ」と言い、私などはこれは官邸からの回し者かと思ったほどの人物である。
 彼が座長に決まった時から、検証など名ばかりで、このような結果は決まっていたのである。この政府諮問委員会の座長という役割が彼への報償であったかと納得のいったことである。
 政府が作る諮問委員会などは皆この程度のものである。

 原子力保安委員会が、あの名物委員長の不倫スキャンダルで解体され、出来た原子力規制委員会も、最近は化けの皮が剥がれ、臆面もなく原発再稼働許可を乱発し、今や原子力促進委員会になっている。(TBSサンデーモーニングでの毎日新聞編集委員岸井氏の発言から。)

*安保法制議論の前にはっきりさせるべきことがある。
 いつの間にか集団的自衛権、外国軍隊の後方支援、重要事態法などの11法案が、安全保障法制として閣議を通り、その11法案を物干し竿に吊るして一本として、国会審議にかけられた。

 各々の法案について、やがて形ばかりの国会討論がされ、いずれ強行採決されるのであろうが、その前に国民にははっきりさせておかなければならない重要な問題があるはずである。

 集団的自衛権は、中曽根内閣から小泉内閣まで、憲法違反であるから行使できないというのが自民党政権の見解であった歴史的事実がある。安倍政権は米国の要請にこたえて集団的自衛権を行使したいが、かと言って憲法を変えるのは厄介だから、とりあえずここはゴリでも憲法解釈を変えて、憲法違反ではないことにしよう、として出してきたのが今回の安保関連法制である。

 憲法はまぎれもなく国民の権利を守る、国民のものである。それを一内閣が解釈の変更で、事実上の改憲をしてよいのか、という第一の問題である。

 さらにはこの法案が国会で審議される前に、アメリカの国会で上下院議員を前に、得意満面に、これら法案は夏までには必ず成立させると明言し国際公約をした事である。

 これほど国民の主権が侵され,馬鹿にされたことは明冶立憲以来ないのではないか。

 このところ安倍首相は自分が言ったことは何でも必ず実現させる、出来ると思っているようであるが、これが専制政治でなくて何であろうか?

 沖縄県民が辺野古基地移転に反対の民意を明確に表明しているにも拘らず、それらには一顧だにせず、移転は粛々と行うと言い、民意無視、強行突破の構えである。
 「粛々」とは政治家が好んで使う言葉であるが、これは問答無用の言い換えでもある。

 これらはすべて安倍首相がアメリカにおもねっているの証さである。それは彼の信念なのであろうが、その信念を支える理由が凡人たる僕にはよく分からない。
 彼に深い哲学、歴史観があるようには到底思えないから、動機としては、ゆがんだ選良意識(家柄の良さから、お前たちとは違うぞ)と、自分はポピュリズムには陥らないぞ(国民の人気取はしないぞ)という強がりと、劣等感(エリートの学歴ではない)から来る功名心が織成しているくらいしか思いつかないが、最近では独裁的権力を持った者のもたらす魔物のような心理が働き、さらに分かりにくくなっているようにみえる。

 ところで、沖縄の辺野古移転反対運動がこれから益々強くなると、アメリカの方で辺野古をあきらめる可能性があると思えるのである。基地の地元住民に拒絶されてまで自国の軍隊を置くのは得策ではないと判断するかもしれないし、第一、それでは自国の兵士がかわいそうではないかと思うであろうからである。
 果たしてそのような事態になった時に、政府はなんと言うのだろうか、楽しみである。

 ついでに言えば、今の安保法制改正で、自衛隊員の命がかかる危険が増すのどうのという議論があるが、それは自衛隊に失礼な話だと思う。自衛隊員は戦争要員であるから、もともと命をかける宿命があることは彼らは百も承知だろうし、その覚悟もあるのではないかと思う。
 そんな心配をしてもらうより、彼らが望むのは、働き甲斐(死に甲斐)のある政治環境、国民の支持なり、国民からの愛情が欲しいのではないかと思う。

 自衛隊は誕生以来、常にいびつな存在であり、災害出動では感謝されようとも、国民から疎外感を受けてきている。一国の正当な軍隊として遇されたことないのである。少なくとも自国民からは深い尊敬と信頼を得ない立場で、武器を制限されたまま、防衛のためだけに出兵しろ、と今言われているのである。
 都合のいい時にだけ、先頭に立って死ねというのもあまりにご都合主義と言わねばならないだろう。

 ベトナム戦争やイラク戦争で多くの米兵も死んだが、戦後になって、あの戦争は間違いだったと国民にいわれたのでは本人も遺族もたまらないだろう。今回の安保法制も同じような危惧がある。集団自衛権行使で戦争に行ったが、あれは憲法違反の行動であったと国民から白い目で見られたのでは自衛隊員も浮かばれないであろう。

 我々はこれを機に、日本の安全保障を真剣に考え、自衛隊のあり方について国民的総意を明確にするべき時期ではないかと思う。これが第二の問題である。

 まず我々は、安全保障を外交による平和的手段によるのか、軍事力及び軍事同盟を主体としていくかの基本的な選択をする必要がある。もし現状のように後者で行くのなら、日本も核武装をするのは当然とする考え方が、妥当で説得力があると小生は考える。それゆえ、核武装前提で安保法制を考え、究極の選択をするべきであると思う。

 為政者は、当然なことをまやかさないで正直に説明し国民に選択をさせるべきであろう。

 戦国時代の長篠の戦いでは、武田信玄勢の勇猛果敢な騎馬軍団も織田信長勢の足軽の撃つ鉄砲の前では惨敗したではないか。1000本の非核の通常弾頭ミサイルより、1本の核弾頭ミサイルの方が抑止力は強いのである。「飛び道具とは卑怯なり」と言って刀に拘っていては戦略もたたないのである。それに核武装は、軍事同盟をも有利に運ばせるに違いない。(だからこそ、米国は日本の核武装を恐れているではないか。)同盟国の膨大な軍事費を負担をするより経済性も高いであろう。
 僕は、決して日本の核武装を推奨するものではないが、しかし今のように本音をごまかしつつ軍備増強を図っても国民の利益は一つもないと思うから、政府は正直に将来の展望、戦略構想を説明したうえで、国民投票を行い改憲をして、国民が納得の上で安保法制改定を進めるべきと思うだけである。

 憲法を改変したうえで核武装をして軍事力を強めて行くか、憲法9条を守り軍事を放棄して平和主義で行くかは、あくまでも国民が選択するべきことで、一部の政府の人間が決めることでは断じてないのである。

 

入学式-信州大学学長の挨拶

 私は元来、式というものが苦手で嫌いである。形式ばっていて、窮屈で仕方ないからである。
 個人的には大学の入学式も、卒業式も記憶にないから、多分出ていないのであろう。
 しかし、こんな話が聞けるなら入学式も悪くはないと思う。

松本市

松本市

 信州大学の今年の入学式の学長の挨拶である。内容が良くてあちこちで評判になって、ネットの朝日新聞で全文が読めたので、読み損なった方のためにここに全文を掲載したいと思います。
 小生の駄文を読むより100万倍の価値があると思うからです。

 新入生の皆様、ご入学おめでとうございます。信州大学は全学を挙げて皆様を歓迎いたします。そして、ご両親、ご家族の方々に心からお慶びを申し上げます。おめでとうございます。
 皆様が本日入学式を迎えることができましたのは、厳しい受験勉強を克服された努力の結果であります。と同時に、励まし頂いたご家族、ご友人そしてご指導頂いた先生はじめ多くの方々のお陰だということを改めて深く胸に刻み、感謝の気持ちをいつまでも持ち続けてください。
 そして、留学生の皆様は母国を離れ、言葉、文化、生活習慣の異なる信州のこの地に生活することになりました。初志を貫徹され、四年後に大きな成果を挙げられることを期待しております。
 また、信州大学大学院にご入学された皆様にも、心からお祝いを申し上げます。おめでとうございます。最高学府である大学院の入学式に臨まれて、決意を新たにされていることと存じます。今の新鮮な知的高揚感を決して忘れることなく、大学院での学びと研究を続けて頂きたいと存じます。

 ところで、新入生の皆様は、本日、大学受験から解き放たれたことになりましたが、もう勉強はしなくて良いなどとは考えていませんよね。

 今までは、皆様は正解のある問題を解くことに終始していました。知識の量を試されていました。世の中では、正解のない問題を解かなければなりません。誰も考えたことのないことを考えるという、知識の質を問われることになります。さらに、世界の状況は変化が大きく、スピードも速く、ICTの進歩で一気にグローバル化します。
 大学院入学生にも、是非聞いて頂きたいのですが、日本が今後とも活力ある社会を維持し、世界へ積極的に貢献していくためには、科学、技術、文化のいずれの分野でも独創性や個性を発揮することが重要となります。横並びの発想では問題を解決できません。
 皆様は、もしかしたら、個性の発掘に没頭する「自分探し」をしませんでしたか。また、これからしようと思っていないですよね。若い時の自分探しは勧められません。特に、解剖学者の養老孟司さんは、「個性は徹底的に真似をすることから生まれる」とまでおっしゃられています。伝統芸能の世界に見られる、師匠と弟子の個性の違いを指摘されてのことです。
 個性を発揮するとは、なにか特別なことをするのではなく、問題や課題に対して、常に「自分で考えること」を習慣づける、決して「考えること」から逃げないことです。自分で考えると他人と違う考えになることが多くなり、個性が出てきます、豊かで創造的な発想となります
 学生で言うと、普段の勉強を真剣に取組むこと、そして身につける「知識の量」を主とするのではなく、「知識の質」すなわち自ら探求的に考える能力を育てることが大切となります。
 ところで、信州大学の学生は独創性が豊かなのでしょうか。ここに興味あるデータがあります。昨年六月の日本経済新聞の調査結果です。上場企業四三三社の人事担当者から見た「大学のイメージ」調査です。「対人力」、「知力・学力」、「独創性」などについてのランキング結果です。
 信州大学は、京都大学を抑えて、「独創性」項目で第一位です。この「独創性」の判断は「創造力がある」と「個性がある」という質問で行っているようです。
 一言付け加えておきますが、信州大学は、「知力・学力」の項目でも、高位にありました。「単に変わった人間が多い」ということでは決してありません。
 就職されている先輩諸氏は、「独創性」が高いという社会的評価です。皆様もそうでしょうか。卒業すると、そうなるのでしょうか。私は違うと思います。受験勉強と同じ気持ちでは駄目です。大学での勉強と生活の仕方を変えなければなりません。
 その理由をお話しましょう。創造性を育てるうえで、特に、心がけなければならないことは、時間的、心理的な「ゆとり」を持つこと、ものごとにとらわれ過ぎないこと、豊か過ぎないこと、飽食でないことなどが挙げられます。
 自らで考えることにじっくり時間をかけること、そして時間的にも心理的にもゆったりとすることが最も大切となります。
 子供の頃をちょっと思い出して下さい。子供の頃は、例えば、夏休みがゆっくり過ぎていたと感じませんか。大人になると、忙しさで、時間は走馬灯のように速く過ぎていきます。脳科学者のDavid Eagleman(デイウィッド イーグルマン)さんは「記憶が詳細なほど、その瞬間は長く感じられる。しかし、周りの世界が見慣れたものになってくると、脳が取り込む情報量は少なくて済み、時間が速く過ぎ去っていくように感じられる」と言っています。
 自分の時間を有効に使うために、自力で時の流れを遅くする必要があります。
 そのために五つの方策が提案されていることは良く知られています。
 一、学び続けること。新しい経験が得られて、時間感覚がゆっくりとなる。
 二、新しい場所を訪ねる。定期的に新しい環境に脳をさらす。
 三、新しい人に会う。他人とのコミュニケーションは脳を刺激する。
 四、新しいことを始める。新しい活動への挑戦。
 五、感動を多くする。
 信州大学では、自然に囲まれた緑豊かなキャンパスでの勉学と課外活動、都会の喧騒とは無縁の落ち着いた生活空間、モノやサービスなどが溢れることのない地に足の着いた社会など、知的にものごとを考え、創造的な思考を育てる環境を簡単に手に入れることができます。先輩諸氏は、このようにして、ゆっくりとした時間の流れを作っていたのです。
 皆様はどうでしょうか。残念なことですが、昨今、この信州でもモノやサービスが溢れ始めました。その代表例は、携帯電話です。アニメやゲームなどいくらでも無為に時間を潰せる機会が増えています。スマホ依存症は知性、個性、独創性にとって毒以外の何物でもありません。スマホの「見慣れた世界」にいると、脳の取り込み情報は低下し、時間が速く過ぎ去ってしまいます。
 「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」 スイッチを切って、本を読みましょう。友達と話をしましょう。そして、自分で考えることを習慣づけましょう。自分の持つ知識を総動員して、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性豊かな信大生を育てます。
 最後にご紹介したいことがございます。本日の入学式では二つの歌を皆様と一緒に歌うことになっています。一つは信州大学の前身の一つである旧制松本高等学校の思誠寮寮歌「春寂寥」です。大正九年に吉田実さん(作詞)と濱徳太郎さん(作曲)の二人の学生によって作られました。
 旧制松本高等学校は、大正八年(一九一九年)に開校され、その後信州大学の発足にあたりその母体の一つとなり、文理学部に改組されて昭和二十五年(一九五〇年)には閉校となりました。
 文科と理科の専攻に分かれての勉強ですが、授業時間の四割が外国語、文科でも数学と自然科学が週五時間ほど課せられ、また理科でも国語及び漢文が週四時間ほど課せられる、文理の差が非常に少ないカリキュラムでありました。
 ほとんどの生徒は思誠寮での寄宿生活であり、寮生活を通して、切磋琢磨により、自らの生き方を見出すという恵まれた時間をつくることができたと言われています。まさに独創性が育まれたということです。作家の北杜夫さん、辻邦生さん、病理学者の飯島宗一さん、日本人として初めて南極点に到達した南極観測隊々長の村山雅美(まさよし)さんなど各界で著名な方々が多くいらっしゃいます。
 もう一つの歌は、信州大学学生歌「叡智みなぎる」です。昭和三十五年に文理学部宮坂敏夫さん(作詞)と工学部羽毛田憲一さん(作曲)の二人の学生によって作られました。文理学部同窓会誌に、宮坂敏夫さんが書かれた「作詞の経緯」によりますと、信州大学学生部が六十年安保闘争のデモに明けくれる学生の実態を見て、学内に潤いが欲しいと思って、学生歌の募集を始めたのではないかとあります。なお、宮坂敏夫さんは、現在俳人としてご活躍でいらっしゃいます。この「叡智みなぎる」の学生歌ができた頃の学生達は、自らの勉学時間を削ってでも、日本の国の在り方と国の行く末を案じるという、熱い情熱を持って学んでいたのです。
 また、この二つの歌はいずれも、松本在住の音楽家丸山嘉夫さんによって、見事に編曲され、若者たちの「青春の歌」として蘇っていることを付け加えておきます。
 皆様は、一日も早く新しい生活環境に慣れ、心身ともに健全に保ち、勉学に励み、目標に向かって進んでください。大学生時代は、長い人生の中でもかけがえのない大切な時期であります。充実した楽しい大学生活を過ごされることを期待しています。
 そして、大学院に入学した皆様は、自らの高い問題意識と積極的な取り組みによって、初めて真理が探究でき、新しい知の創造の喜びが生まれ、社会に貢献できることを肝に命じてください。
 学術研究の将来を担うのは皆様です。信州大学の学術研究は皆様の肩にかかっています。高い志と熱い情熱を持ち続けてください。そのことによって、日本の明るい未来が開けるものと確信しております。

 平成二十七年四月四日
 信州大学長 山沢清人

 

空耳妄言③ ―空耳のように、聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

*テロは弱者の戦争である
 世界中の国家がテロとの戦いを表明し、テロを憎まなければ人に非ずのような風潮である。

ISIL(イスラム国)が日本人を殺害してからは、我が国でも一層その機運は高まった。
しかし、テロはそれほど一方的に非難されるべきものか、少し見方を変えれば、チョットどこかおかしいと思うのは、決して私だけではないと思う。
 なぜなら、テロとの戦いと言いながら正当化しているが、テロリストによる犠牲者の数百~数千倍の民間人がイラクやアフガニスタンでは米国の無人爆撃機や特殊部隊の犠牲になっているからである。

 彼等は、欧米人の一人の命は中東の民間人の命の数百倍に相当するかのような感覚である。

 テロリズムの概念は、国家の権威者やその支持者が、政治的あるいはその他の敵対者を非合法化し、更に国家が敵対者への武力行使を合法化するために使用されるものである(ウィキペディアから)、とある。
 テロは、弱い立場の組織、国家の存続をかけた戦いであり、つまりは戦争なのである。毛沢東もカストロもあのネルソンマンデラでさえ、かつてはテロリストと呼ばれたが、勝てば救国の英雄になるのである。

 戦争であるから、戦闘の仕方をあげつらって非難しても始まらないことは歴史の教えるところである。旧日本軍の特攻隊は、立場が変われば、自爆テロであろうし、アメリカは日本の大都市の殆どを無差別に絨毯爆撃して、数百万の市井の日本国民を殺したうえ、原爆を投下し、民族殲滅を図るようなことさえした。

 大量の優れた殺戮手段を持つ国家との戦いで、弱者が選ぶのはテロ以外に戦闘手段は無いのである。無差別に攻撃を仕掛け、一般人を巻き込んでくるのは卑怯と言えば、卑怯、非人道的と言えばそうかも知れないが、戦争とは本来、相手を殺し勝利することが目的であるから、戦術の方法を非難しても意味のないことと言えるだろう。

 元々人道的な戦争など存在しないのだ。

 従って、戦術としてのテロを人道的に非難してみたり憎んでみたところで意味の無いことであり、問題は、戦場が確定しない、前線無き戦争をどのように戦うかという戦略戦術の問題なのである。

 テロとの戦いを、うまくプロパガンダに利用して、国民に何が本当の実態なのかを教えずに、戦争をしやすい国家に誘導しようとしている、どこかの国の首相がいる。この前のイスラム国による日本人拉致殺害事件では、国民に対する国家の責任を放棄しておきながら、国民を守るためと称して軍備増強にはなぜか熱心である。
 日本の美しい国土を守ると力んでみせながら、何故か原発再開には熱心である。
 国民の利益より、自分の政治的野望が常に優先してきたことは、既に見てきたが、なぜそれほど、国民の大半が支持する憲法を改変してまで戦争の準備をしたがるのか、その本音、意図が愚昧な僕にはよくわからない。

 アベノミクスで名目上の景気は回復してきているから、すべての悪弊は雪が積もったかのように隠されているが、雪が解けて一体何が露呈するか、そしてそれが原発廃棄物のように、黒い袋に詰められ蓄積するばかりで、永久に処理され尽くされないようなものであるという恐ろしい悪夢を見るのは私だけでしょうか。

 テロ組織が勝利するには森や海になってテロリストをかくまう市民の支持が不可欠であり、それはイスラム国では非現実的と思うが、欧米からもイスラム国に参入者が絶えないというのも不気味な話である。それは我々が、オーム真理教の思想を理解せずオームのテロだけを糾弾していても、オームは無くならないように、我々がイスラム教徒を理解していないのに過ぎないのか知れないと思うのである。

 

*群馬大学病院の術後患者死亡頻発事件についてー臨床医学低迷の理由
 春の学会シーズンが来て、私のところにも日本形成外科学会学術集会のプログラムが来た。学会のプログラムを見て思うのは、その内容にエネルギーが感じられないことである。何年も似たようなテーマが繰り返されシンポジウムが組まれ、一般演題にも見るべきものはほとんどない。要は、トピックスとなるものが無いのである。

多分、これは形成外科に限らず、ほかの臨床科も同じようなものであろうと思う。
かくも臨床系医学会が低迷する理由は何か?

 群馬大学医学部付属病院では手術の下手な外科医が、何人もの患者を犠牲にした。大学はなぜこのような事態を見過ごしてきたか。もっとも議論されねばならないのはこの一点であろう。

 これらの二つの問題は根っこが同じような気がしてならないのである。

 要は、組織の直接の指導責任者である教授の無能ぶりに原因があるのではないかと思うからである。
 教授に、この人物(部下)にそれだけの力量があるかどうかを判断する能力が無いのである。
 臨床的な力の無いものが、教授になれば、部下の臨床力など判断しようがないし、強い指導力など発揮できるはずもないのである。
 教授になる前に業績があり、それを更に発展させるために教授というポジションを得ようとするのではなく、教授になることだけが目的のような人物がなるから、なっても何をしていいかわからない。指導するにも学問の先端状況がつかめていないのだから、指導のしようがない。

 私が長年経験し、見聞して来たところでは、そんな印象が強い。

 臨床、研究が好きで、それなりの業績を持つ人ももちろんいるが、教授選考は、その担当科目ではない、いわば門外漢の集まりである教授会が選考するのだから、勢い論文の評価に頼らざるを得ない。そうすると、インパクトファクタ―(点数)の高い基礎系のジャーナルに論文が載る基礎系研究を得意とする者が有利になり、臨床科でありながら、臨床を得意にしない基礎研究を得意とする者が教授として並ぶようになる。

 しかし、基礎でもきちんと業績を持つ人はそれなりの見識があるからよいが、問題は、何にも無く、世渡り上手だけでなってしまう人種がいることである。
 なることだけが、目的だから、カリスマ性も指導力もないし、自分が何をすべきかもわからないから、ただ権威だけを振りかざすことになる。
この手の人種は、名誉欲だけは人一倍強いから、彼らは次に何をするか?
 学会の重鎮の腰ぎんちゃくになり、学会や大学内での役職というポストを求めるのである。
 新設医学部ラッシュがあったりして教授ポストも倍増したから、順番から溢れるものが出てくるようになると、新しい学会をどんどん作ってポストを割り振ることになるのである。
 また不必要に増やした学会を維持させるために何をするか?
 簡単なことである。学会参加と引き換えに、00認定医という資格を乱発し会員の確保に努めるのである。
 彼等は、役員としての待遇を確保するから良いが、末端会員は、一つあれば済むような臨床科でも4つも5つも学会費用を払わなければならないようになった。
 そして、学術集会というイベントでは会員から高額な参加費を集め、余剰金を作りかつての会長経験者達を夫婦で招待し、物見遊山させるのである。これは、いずれその役得が自分に回ってくるものだから、会員からいくら非難されても、どの会長もやめようとしないのである。

 この程度の能力と識見の人物が仕切る大学医学部は臨床の進歩を引っ張る学問的な発信基地になりうるかはなはだ疑問である。
 自身に臨床を発展させる能力も、指導しようとする意欲も無いので、優秀な人物が、突然変異的に出現し独走しようものなら、火の粉が降りかかるのを防ぎ、保身のために倫理委員会を作り規制にかかるのである。が、成功の果実にはしっかり食らいつく習性が強いのも彼らの特徴である。
 倫理委員会は,臨床家が自らの首を絞めるようなものであるが、彼らは臨床の進歩には直接関与しないのだから、何も不都合など生じないのである。

 と、いうような見慣れた景色が、群馬病院事件を機に妄想されたのである。

 教授達の能力の低迷と倫理委員会の強化で臨床の進歩は大きく損なわれていくであろうことは明らかである。

 我々が忘れてはならないのは、臨床の進歩の最初の一歩の決断は、常にいつでも非倫理的な要素を持つモノなのである、ということである。

 

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