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辻静雄のこと―食を文化にした、フランス料理の伝道者

 もう30~40年ほど前になるが、TBSで「料理天国」という料理番組をやっていた。出演していた講師陣がちょっと変わっていた。使う用語がきちんと定義されており説明にぶれがなく、料理をするにあたっては、極めて論理的に料理を作ってみせるのである。料理が体系化され学問化されているのである。彼等の肩書が阿倍野辻調理師学校00料理教授とある。
それが僕が辻静雄を知り、関心を持つきっかけになり、その後いくつかの彼の著書を読むようになった。

 彼が60才で急逝してから20年経ち、追悼記念文集のような本(「辻静雄」河出書房夢ムック、河出書房、2014)が発刊されたので読んでみた。

 辻静雄は日本にフランス料理を紹介し、定着させ、日本料理を世界に認めさせた最大の功労者であり、フランス政府からMOF,シュバリエ章、オフィシエ章を授与されている。現在、大阪、東京、リヨンに辻調グループは14校、卒業生は13万人、辻調グループ学術出版部がかかわった出版物は700冊を超えるという。

 何より、料理というものを文化の一つとして認めさせ、学問のように体系化させた功績は余人を持って代えがたいと言える。

 辻静雄は、貴族趣味で独特のオーラを発散していた稀有な魅力を持った人物であったらしい。見聞する限りではどこか吉田茂、白洲次郎、伊丹十三に通じるところが感じられる。

 東京の生まれで、早稲田の仏文を出るまでは平凡な男だったらしいが、マスコミ志望で、唯一受かった大阪読売新聞社に就職して、大阪に移住し人生が変わった。
取材で訪れた市井の料理学校で、ある女性と運命的な出会いをし、彼女と電撃的に結婚し、やがて夫人の実家の料理学校を継ぐことになった。
義父は、進歩的な意識の高い度量の大きい人物で、料理に繋がることならいくら散財しても許したため、夫婦は、アメリカの料理研究家チェンバレン(MIT教授)、フィッシャー女史(カルフォルニア大)教授)の紹介状を持って、数か月かけて、ヨーロッパの名だたるレストランを食べ歩き、フランス料理界の巨人やトップシェフたちの知己を得た。
帰国後、花嫁修業の域を出なかった割烹学校を、一流の料理人を育成する辻調理師学校にかえ、ポールボキューズはじめヨーロッパの一流シェフ80名ほどを日本に招き、日本にフランス料理の基盤を作った。学校は質量とも日本一を誇り、フランス、リオンなど海外にも分校を作り、世界に誇る料理専門学校に発展させた。

彼は経営者として非凡なだけではなく、フランス料理を文化として育てた功績も大きい。ブリアーサヴァランの「美味礼賛」を始め多くの古典を日本に紹介し、また本人も大著『フランス料理研究』を始め、数十冊の著書も書いており、その中には今や料理人のバイブルといわれる本も多い。

 料理の器材、食材はすべて一級品でないと許さず、それは学校の生徒たちの実習においてもそうであったという。

 趣味嗜好はすべて一流好みであり、マナーとデリカシーの無い人間を忌み嫌い、従って政治家とは付き合わなかったが、文化人、経済人とは広く付き合い、貴族を装うような生活を自ら実践し、またそうなろうと努力しているようであった。

 彼の周りには一流の文化人が集まり、サロンが出来、自邸では自校の教授クラスの料理人を呼んで、食材には糸目を付けずに贅を尽くした食事会がしばしば行われたそうである。

 開高健、小松左京、丸谷才一など文壇グルメのうるさ方が嬉々として集まったそうで、そこに招かれるのが大きな誉れであったという。
玉村豊雄も最後の方は常連に加わり、その様子を今回の刊行本の中で書いている。
その本に寄稿している人達には、他にも大岡信、木村尚三郎、阿川弘之、伊丹十三、鹿島茂と多士彩々である。

 皆が一様に、辻静雄は、財力と知力を兼ね備え、音楽から文学、あらゆる芸術に通じ、仏語とクイーンズイングリッシュを話し、教養と品格に満ちた振る舞いとその生活ぶりから、日本で貴族と呼ぶにふさわしい、国際的に通用する唯一の日本人であると称賛している。

 ただ、包容力のある人格と才媛の誉れが高い辻勝子夫人が、夫人だからこそ知る辻静雄の実像を語っていて面白い。

 独身時代の彼は、一冊の本も一枚のレコードも持っていなかったと言うし、食べ物も好き嫌いが激しく、およそグルメとは程遠かったらしい。
 ヨーロッパで、気どったジビエ料理を頼んでも、ほとんど夫人に回し、自分は牛肉か白身の魚かスモークサーモンをいつも食べていたという。ワインも飲めず、レストランではいつも失敗しないように緊張しっぱなしであったという。

 見栄っ張りで、何でも一番のものでないとだめで、出先で急に料理の写真を撮るとなった場合でも、カメラはリンホフ、ハッセルブラッド,ライカでないとおさまらないような、我儘な子供じみたところもあったという。

 これは、彼のどの本だったか忘れたが、文中で、渋谷のH料理学校(今はどこにあるかは知りませんが。)の2代目の無能ぶりを露骨に揶揄していたことがあった。真摯に料理を勉強しようと努力をしない、料理を文化として捉えて教養を深めようとしない同世代の軽薄な二代目同業者がいることが腹に据えかねているようだった。

 当の渋谷のボンボンは、辻亡き後は顔が売れ、今やマスコミでは料理界の重鎮扱いだが、かつてのテレビ人気番組「料理の鉄人」の解説では、確かにプロとは思えないような頓馬な発言を繰り返していて、腑に落ちたものだった。

辻は、自宅や別荘での食事会では、辻調出身の一流の料理人を並べて、贅を極めた当代随一の各種料理を作らせたが、火の通し具合などがちょっとでも気にいらないと声を荒げて叱り、作り直しを命じたという。

 それでも本人は殆どそれらの料理は口にしないのが常で、一人だけ握り寿司のようなものを食べながら、センスのいい軽妙な会話に興じていたという。

つまり彼もそこそこ「虚」の人であったわけだが、人前では「真」を演じ切ってしまったところが、彼が偉大で、広く愛され、尊敬されたた所以だろう。

 現在、経営的には優れたセンスの料理人は洋の東西を問わず沢山いるが、料理を文化、教養の一つとして位置付け、学問的に深化させるよう切磋琢磨しているような人は、辻静雄亡き後どこにも見当たらない。

 

 

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