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富麗華の上海蟹


新しい職場の忘年会で東麻布の中国飯店「富麗華」の上海蟹を食べる機会があった。
富麗華の上海蟹は数年ぶり二度目の経験であったが、今回の方が蟹も大きく、味噌も内子も濃厚、豊潤な味わいで食べごたえがあったような気がした。
訪ねた時期の微妙な違いもあろうが、やはり一般客として行く時と、オーナーにコネがあって行く時では多少の違いも出るのかもしれないと思ったりした。

バチカン宮殿のシャンパンと共に

バチカン宮殿のシャンパンと共に

東京は世界に冠たる食の都と言われるが、他国の食の文化を取り入れて自国の風物詩、イベントのようにしてしまうのは日本くらいではなかろうか。ボジョレヌーボーのバカ騒ぎは最近はひと段落したが、今でも秋になればポルチーニは食べたか、今年の白トリフはどうだとか外国の食材が話題になる。上海蟹もその一つであろうか、秋も深まってくると上海蟹が話題になるのである。

小生は季節のものを食べないと年が越せないほど食に拘りはないが、それでも季節になって、その季節にしか食べられないものを食するのは嬉しいものだ。とくに現代のように、魚介や野菜・きのこの人工栽培が当り前になり、食べ物の季節性と言うか、旬がハッキリしなくなってくると、季節と強く結びついた食べ物は、残された食する機会の有限性を思うと、有難さも一層増してくるのである。

蟹が養殖栽培されているかどうかは定かではないが、未だに季節限定の高級品であることに変わりはない。山陰境港や北陸金沢、三国の松葉蟹(ズワイガニ)、北海道の毛ガニや花咲蟹は無論のこと、西伊豆の高足蟹、浜名湖の幻のドウマンガニは別格にしても三河湾のワタリガニでさえ、それぞれに思い出があり、その頃はまたいつでも食べに来られると大して感慨も無かったが、今はもう一度その機会があるとは思えなく希少な舌の記憶を懐かしむ心境になってしまった。

上海蟹の食べ方は基本は渡り蟹と同じである。

子どもの頃の夏休みの記憶である。
オヤジが思い立つと、早朝にスクーターに小生を乗せて三河湾に面した蒲郡や一色の港に魚や蟹を買いに行く。台所で羽根つきの大鍋に湯を沸かし、生きた渡り蟹を鍋一杯投げ込んで、暴れるのを蓋で抑えて茹で上げる。甲羅を剥がして、まずは甲羅にへばりついた味噌と内子(卵)を食べる。次いで脚の方は根元のところで二つに割って、現れた筋肉にかぶりつき、さらに薄い殻に囲まれた筋肉をほじって食べる。ここが一番旨いのである。最期に惜しむかのように足の節や爪を食べるがここはさほど旨くはない。田舎では蟹酢などは使わずそのまま食べたものである。お腹いっぱいになるまで食べ、それが昼ご飯の代わりであった。

まずは味噌と内子

まずは味噌と内子

次いで身(筋肉)が。

次いで身(筋肉)が。


富麗華の上海蟹の供され方も、上品ではあるが同じである。まずは味噌と内子が黒酢と共に出てくる。次いで脚の根ものと筋肉が出され、最後の脚の節が出されるという3ステップである。

上海蟹はモズク蟹の類で、モズク蟹は日本では川の漁師が生業にしていて、大して高級なものではない。美味ではあるが、泥臭く扱いが面倒なのと、所詮は小さく、食べる身が少ないからである。上海蟹も小さく食べる筋肉も少ないので、自分でさばいて食べるなら、小生は味に遜色のないワタリガニの方が断然好きであるが、富麗華のように綺麗にさばいて出されるなら味に集中でき上海蟹のうま味が堪能でき、また高価ゆえ一層美味なのである。

上海蟹は秋になれば東京の多くの店で食べられるから、格別なそれほどの思いも無いが、かといって隠居同然の身となった今では気楽にいつでも富麗華の上海蟹が食べられるわけでもなく、この度は久方ぶりの好事、幸運であり転職に感謝であった。

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