最後の晩餐は、レオナルド・ダビンチが描いた、イエスキリストが処刑前夜に12人の使徒と一緒に取った食事風景の壁画として、誰一人として知らぬ者はいない程有名な絵であるが、この絵の中心テーマは聖体拝領であり、キリストの肉の代わりにパンを、血の代わりに葡萄酒を食したという。
従って、キリスト教徒のパンとワインには神と人間の一体化の儀礼的意味があるのである。
道理でよく飲むわけである。
さて、ここでは人が死ぬ前に食べる最後の食事のことを話したいと思う。
『君は死ぬ前に、最後には何を食べたいか?』、とよく話題になるあれである。
私の場合はこれである。
茎イモである。
出始めの新物の里芋で、頭に茎が10?ほど付いたやつである。
田舎では、昔は、これを水盤に入れ、盆栽のように飾ったものであった。
細い茎が何本も伸び、先っぽには、露をはじく、瑞々しい、真緑の葉がつき、離れてみるとまるで林のように見え、感じの良いものである。
田舎にいる頃は、これが玄関に置かれると、ああ夏が来たな、と思ったものである。
東京でも、赤坂にあった鮨屋、喜久好のカウンターの奥には初夏になると毎年飾られていたのが、今となっては懐かしい思い出となった。
生け花は必ずテッセンであった。絵は何であったが忘れたが、毎年、季節に必ず決まった設えになるのも、まるで田舎に帰ったかのような気持ちになり、いいものであった。
親方は、お元気であられるであろうか?
さて、小生の最後の食事の第一候補は、この茎のついたサトイモの新物である。
それを茎つきのままで薄くスライスして味噌汁にして食べるのである。
里芋のとろみが出ておつゆの粘度が増すのが、なんとも好きなのである。
ちょっと下品ではあるが、これを猫まんまにするのが最も美味しい食べ方であると信じている。
猫まんまと言っても作法がある。
ご飯に味噌汁をかけたのではだめで、味噌汁の中に丸くお椀の形が付いたご飯を入れるのが正しい食べ方である。
ご飯を崩しながら、茎のついたイモを一緒に食べるのでなくてはならない。
出汁は鰹だしでシイタケか、油揚げを加えるのが良い。
こんなゲテ物は、皆さまはおそらくご存知あるまいし、小生の田舎でも知る人は少ないと思う。
ということは極めて個人的な食べ物かというと、今でも田舎の一部の八百屋ではこの茎芋を売っているというから、全くprivateなものでもないのだろう。
毎年7月の中旬になると、田舎から送ってもらうのが約束になっているが、待ち遠しくて仕方がない。
このような食べ物が好きということは、決まって個人的な、思い入れの強い幼児体験があるに違いないと思われるでしょうが、そのとおりなのである。
他人のつまらない思い入れ話など聞いても仕方ないでしょうから言わないでおくが、嗜好品の究極は、必ずや物語がつきものであることは皆さんもご同様の事と思いますので、気持ちだけはご理解いただけるものと思います。
私の場合は、この茎つきのサトイモが最後の晩餐にふさわしいのです。
今でも、これを食べながら、目をつむると、走馬灯のように、幼い頃の情景が駆け巡ります。
私の最後の晩餐は、つつましげな望みで簡単のように見えますが、しかしながら大きな問題が一つあります。
茎芋の出回るシーズンは7月の中旬からせいぜい数週間のことであり、この期間に死なないと、私は最後の晩餐をたべ損なうことになります。
あの強面の時事評論家、故大宅壮一が死ぬ時に、『オイ、抱っこしてくれ』と夫人に言ったそうですが、小生も茎芋の猫まんまを食べて、誰かに抱っこされながら、幼少年期の夢でも見ながら、息を引き取れたら本望のような気がします。
ちなみに家人は、今の所、抱っこを拒否しています。
私には理由はわかりません。