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修善寺あさばの朝ご飯

旅館の価値は、朝ご飯で決まるというようなことを言う人がいますが、そこまでのことは無いにしても、旅館の美味しい朝ご飯は嬉しいものです。

特に前夜深酔いした朝は、冷たいビールと炊き立ての白いご飯は堪えられませんですね。

朝ご飯というものは、独特の感慨がありますね。

子供の頃、布団の中で聞いたまな板の音と朝日の中で見えた、(stap細胞の小保方さんのような)割烹着姿の母親が作る朝ご飯。

学生時代、友人の下宿で食べた、カップヌードルの朝ご飯。
山岳部の山行での、半覚醒のまま暗闇で食べた味のないガンタ飯の朝ご飯。

家人が、まだ懸命に真面目に作っていた結婚当初の朝ご飯。(今も変わっていませんが。)

パリの留学生活では、手掴みで買って来たバゲットとカフェオレの狭い部屋での、異次元の朝ご飯

群馬単身赴任時代に初めて経験したシリアルとカットフルーツの味気ない孤独な朝ご飯などなど。

朝ご飯の姿は、生活の真面目さと健康度のバロメーターかもしれませんね。

昔、遊郭では遊女が馴染の好きな客には、自ら朝ご飯を作ることで自分の気持ちを客に伝えたといいます。

また世の中の不良オヤジは、彼女の作ってくれる朝ご飯で、自分への愛情を量り、お小遣いを決めるといいます。

話が脱線し、危ない雰囲気ですので、本題に戻ります。

3月の連休に久しぶりに‘あさば’に行く機会がありましたので、今回は‘あさば’の朝ご飯をご紹介したいと思います。

以前に「あさばの晩御飯」(2012.12.27)を書いたことがありますので、評判の料理はそちらを参考にしてください。もちろん今回も美味しかったです。鍋は太刀魚でした。

‘あさば’では、朝のテーブルセッティングは杉の白木のランチョンマットが置かれ、あらかじめ、葉山葵のおしたし、シラス大根おろし、お新香が置かれてありました。‘あさば’定番の、天城の焼き椎茸は、飛騨コンロとともに杉板の前に準備されていました。

朝ご飯のテーブルセッティング

スタンバイ状態

その後は、数種類の料理が、出来たてで順次運ばれて来る手順になっていました。

最初は生麩の木の芽田楽でした。(写真はありません。)
椎茸は傘を下側にして網に乗せ、椎茸が汗をかいたように水分が襞に滲んで来たら、「食べ頃ですよ」、と促されます。これは塩とスダチを振って頂きます。

椎茸を焼く

この頃合いには、これまた‘あさば’の名物の出し巻卵が熱々で供されます。

出し巻卵

(この頃までは、お酒を楽しむ料理なのか、ここらでご飯とシジミの味噌汁が運ばれて来るのですが、今回は、我々は飲まないので始めからご飯を頂きました。)

次いで鯵のひもの、ワカメと若筍煮と続き、料理は終了です。

鯵の干物

若竹煮

一品ずつがしっかりしたお皿ですので、お腹には十分過ぎる量です。
デザートは伊豆の蜜柑が一粒づつ剥いて出されました。

デザートは蜜柑

後はサロンでコーヒーが付きます。

料理は、気をてらわず、特別変わったところのないものですが、どれも朝とはいえ、手抜きのしていないものばかりで、熱いものは熱く出され、卵焼きは何度食べても感激する出来栄えです。

それに格段に‘あさば’らしいのは器のしつらえです。どれとて、無粋なものは使われておらず、板長の趣味の良さと宿の矜持をうかがわせます。

そういえば、夕食も、ずいぶん器の感じが変わり、前にも増して、洗練された印象でした。最近、器を大幅に入れ変えたのかもしれないな、と感じました。

‘あさば’は最近、インターネットで、「るるぶ」のバナー広告がされていたりして、あの予約の取れない緊張感が無くなってしまったのかと、内心心配して今回は伺ったのであります。

万が一、「修善寺―界」なんて名前になったら、常宿を返上しようと覚悟して行ったのですが、変わらないサービス、料理、お風呂で一同ひと安心して帰ってきました。

‘あさば’を常宿にしているというと、なんだか自慢めいて嫌味に聞こえかねませんが、浅田次郎の次のような言葉(GOETHE2014,5月号)に代えて、弁解しておきます。

『贅沢とは満足感であり、金では満たされない。いわば知足、足るを知るということ。それは自分の心の中に置いておくもので、人に誇った途端に贅沢ではなくなり下衆(げす)になる。例えば温泉は誰もがくつろげるが、それはお湯に入るからだけではない。食事、畳、布団、僕らが回帰すべき日本文化が全部そこにあり、本来自分がかくあるべき場所に帰った安心感があのリラックス感だと思う。』と。

さらに言うなら、それらの上質さは、‘あさば’を知れば、それ以上は、他では味うことが出来ないものだからである。

 

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